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北島敬三

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北島敬三と旧ソビエト連邦

北島敬三が、1991年に崩壊する直前のソビエト連邦で日本人の写真家として活動した体験を語る。写真という媒体は過激な表現のための手段になりえるが、写真家は政治的な発言をするためではなく洞察と体験を深めるために写真を撮るべきであると語る。

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北島敬三と旧ソビエト連邦

北島敬三
2016年7月

北島敬三:私が写真を始めたのが1970年代の半ば頃なんですね。その頃日本の写真っていうのがすごく、一般的人気があったんですよね。注目され始めた、すごく。68年の世界革命から、政治の季節があって、ポリティカルプロテストの時代があって、その時にやっぱり写真っていうのがすごくアクチュアルなメディア、すごく力を持ったメディア、媒体として、日本の70年の社会に現れてきた。で日本の美術はその頃は全然アクチュアルには感じなかった。もっとすごくラディカルな表現としてあった、写真が、その頃。激しい力を持っていた、と私は思った。例えば日本を撮るとか、日本で撮るとかじゃなくて、やっぱり面白い街を撮りたい、その都市のしかも人々、人間を撮りたかった。色々な都市に行きたかった、見たかった、すごく単純なんですけど。

ソ連にはですね、1990年の12月に最初に行って、91年も5、6回行きました。それは朝日新聞っていう日本のメジャーな新聞の依頼だったんですけれども、とにかく好きに撮れ、と言われたんですね。面白かった。面白いってのは、不思議なことはやはり、1991年にソ連は崩壊、終わるわけですけれども、そのことはまったく予想せずに行きました。それで、私にとっても冷戦っていうのは生まれてからずっと続いた世界の体制だったんですけれども、それが簡単にたった1ヶ月で、あっという間にソ連っていう巨大な、強力な国家体制が簡単に崩れるってことは驚きましたね。それはすごくショックでした。

モスクワで道を歩いてたら、フューネラル、お葬式があって、どうも有名な歌手のお葬式だったんで、私はそこで写真を撮りました。それは自由に入ることができた。しかし彼は国民的なシンガーですけれども、愛国主義、民族主義的な思想の持ち主でした。私はその前に写真を撮ったパーミャチという民族主義の団体とも関係があるって言われて、ソ連が崩壊していく中で、民族主義が強く出てきた時の一人だった。

これは、ホテルで彼女に会ったんですど、多分セックスワーカーだと、彼女は。だけど私は「写真を撮らしてください」って言ったら、撮らしてくれただけです。「I am from Chechnya」She said.(私はチェチェン出身です、と彼女は言った。)で、チェチェンはやっぱ、グルジア、いまはジョージア?グルジアと紛争中で、at that time(当時は)。

私は写真を撮るっていうことは、写真的な体験を重ねていくっていうことだと思ってるんですね。写真を通して、写真があるから、体験ができる。私はそうです。世界が体験できるというわけです。そのことを追求していくことしか、私にとって写真をやる意味は無い。写真的体験を積み重ねていくことだけが、経験を深めて、そしてできれば、少し認識を深めていく。そのことで私は写真を撮る、それ以外に意味はない。

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