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日本の写真にフォーカス

デジタル出版物

このサイトは、戦後から現在に至るまで、サンフランシスコ近代美術館所蔵の膨大で多様な日本の写真コレクションを中心に、過去60年間の主要な写真家の仕事を通じて、日本の独特で革新的な写真文化の発展を検証しています。 戦後日本における連合軍の占領とベトナム戦争期における在日米軍の拡大、1980年代の目覚ましい経済成長とその後に起きたバブル崩壊、そして2011年に東北地方で起きた東日本大震災までの激動の時代でありながらも芸術的に肥沃な時代を、写真家たちの経歴、講演会の内容、ビデオインタビューやその他の資料で洞察します。

サンドラ・S・フィリップス 編
背景画像:畠山直哉、《Blast#13018》(部分)2006年、発色現像方式印画、99.5×150cm、サンフランシスコ現代美術館所蔵、空蓮房寄贈 © 畠山直哉
Sponsor image
このデジタル出版は、NIKONの寛大なご支援によって提供されています。 また、レイ・エバンズ&ウィン・リッチー・エバンズ財団とグレン・S&サキエ・T・フクシマ夫妻のご後援を受けています。

NIKONは100年以上にわたり、私たちの日常生活を改善し、より美しい芸術を創造し、人類の最大の課題のいくつかを解決するために、新しく革新的な画像技術を追求してきました。これらの影響力のある写真家の重要な作品やストーリーを世界に届けるサンフランシスコ近代美術館の『日本の写真にフォーカス』に協力できることを誇りに思います。

アーティスト

  • 荒木経惟

    荒木経惟

    1940年、東京都台東区出身

    日本の写真界において最も多作な人物の一人、荒木経惟(1940年生まれ)は、1970年から現在に至るまでに数え切れないほどの写真作品と500冊を超える写真集を世に送り出してきた。膨大な数の作品群は、コラージュや映像の使用、また近年においてはポラロイドのインスタントフィルム技術の採用など、幅広いメディアを取り入れた荒木の飽くなき実験が物語る通り、見る者が容易に分類できない多様性に富んでいる。性を主な題材とした荒木の不遜で皮肉さに満ちた写真はしばしば物議を醸し、彼を悪名高き写真家として世に知らしめることになる。演出を殆ど施さずに撮影される荒木の狂乱めいた写真作品は、第二次世界大戦、そしてそれに続く戦後の混沌とした時代の日本の体験を象徴するものである。 1959年に千葉大学に入学した荒木は、写真と映画を専攻。当時、写真印刷工学科は工学部に属し、その頃から不適合分子だった荒木は学部の厳格に管理され技術面を重んじる環境に対して興味を抱くことはなかった。しかしながら、荒木が卒業制作として提出した映画『アパートの子供たち』(1963年)は彼が初期に手がけた写真シリーズの素地となり、当シリーズは制作の翌年、雑誌『太陽』主催の太陽賞を受賞する。「さっちん」(1964年)は、同年開催の東京オリンピックに向けて疾風の如く急速な都市化が進む中、その影響を殆ど受けることのなかった東京の下町の学童たちを被写体としている。千葉大学卒業後、荒木は広告会社・電通に広告カメラマンとして勤務。そこでの仕事を極めて退屈に感じていたものの、荒木は資材の豊富な電通の施設を利用し、暇を見つけては写真の腕を磨いていった。そうした好機に付け入った荒木は、ついには社のコピー機を不正使用して自作の写真を複写し、それを初期の写真集として発表する。 1960年代後半、荒木の人生と作品制作に極めて大きな影響を与える二つの出来事が起こる—1967年の父親の他界、そしてその翌年の当時タイピストとして電通に勤務しており、のちに荒木の妻となる青木陽子との出会いであった。死と愛は、人間性を深く追求する荒木の写真作品に欠かせない二つの原動力となり、陽子は荒木が最も多用する被写体となった。荒木と陽子は1971年に結婚し、新婚旅行へと旅立つ。新婚旅行時の様子を詳細に記録した『センチメンタルな旅』(1971年)は物語的な表現方法、私的な空気感、そして日常をありのままに伝える美的感覚を用いており、20世紀に日本で出版された写真集の中で最も重要な一冊と見みなされている。写真家としての成功を手にした荒木は1972年に電通を退社し、芸術家一本でやっていくこととなる。 荒木は自身の多岐にわたる写真作品を、多く一人称で書かれた日本の告白体文学「私小説」になぞらえ、『私写真』と呼ぶ。自らの人生と経験(性的なものであれ何であれ)に対する荒木の揺るぎない執着は、濱谷浩などに代表され、そのころ主流であったドキュメンタリー手法の写真美学や、1960年代後半より普及した日本の前衛写真の流れを打ち立てた写真誌『PROVOKE(プロヴォーク)』の写真家たちに特徴的な〈アレ・ブレ・ボケ〉の手法への抵抗であった。荒木は「偽ルポルタージュ」シリーズで、これらの写真的アプローチに真っ向から立ち向かう。1980年に出版された関連写真集は、当シリーズで発表したドキュメンタリー風な写真に誤解を招く説明書きを添えることで、写真が伝える情報の正確さ、信憑性といった本質的な問題を浮き彫りにしている。 1990年に妻の陽子が他界すると、荒木は数々の新プロジェクトを始動する。2008年に自らの前立腺がんの診断結果をも用いて取り組んだ作品は、先細りの一途を辿っていたアナログ写真の可能性を探る試みの出発点となった。塩で覆われた写真のシリーズ「遺作 空2」(2009年)は、付着した物体を徐々に劣化させる塩を使用することで、彼自身の肉体的な衰えを描写している。1974年にジョン・シャーカフスキーと山岸章二が共同キュレーションし、ニューヨーク近代美術館で開催された画期的な「New Japanese Photography」(ニュー・ジャパニーズ・フォトグラフィー)展には参加できなかったものの、荒木は山岸がアメリカで企画した二つ目の展覧会であり、1979年にニューヨークの国際写真センターで開催された「Japan: A Self-Portrait」(自画像 日本)展への参加を果たす。これに先立ち、1977年、オーストリアのグラーツ市立美術館で国外での初グループ展「Neue Fotografie aus Japan」(日本の新写真)に参加した荒木は、ヨーロッパにおける認知度も高めていく。荒木の海外での初個展「Akt-Tokyo(アクト・トーキョー): Nobuyoshi Araki 1971–1991」は、1992年にグラーツ市立公園フォーラムにて開催された。 マシュー・クラック 著 十文字素子 訳
  • 畠山直哉

    畠山直哉

    1958年、岩手県陸前高田市出身

    畠山直哉(1958年生まれ)は、世界の至る場所が人の影響から逃れられないこの時代に、風景が持つ意味を探る写真家である。畠山はアルプスの険しい山頂のような手付かずな美しさが残る風景でさえ、人間が利用し、そして理想化した自然として人間が解釈することでその姿は変わってしまったとし、これを今日の世界が持つ状況として認識することの必要性を説く。このように、畠山の作品は、自然界における人間の営みを受け入れる姿勢を具象化したものだと言える。[1] 畠山は北日本に生まれ、筑波大学で芸術を学んだ。彼は故郷に広がる田園風景と、そこに連なる山々の持つ自然美に魅了され続けてきた。1983年、東京での初展示となるZEIT-FOTO SALONでの展覧会で畠山が発表したのは、簡素な造りの灯台、耕された畑、舗装されたばかりの道に落とされた影といった、あまり手の加えられていない地元の空閑地に人間が残した痕跡を撮影したモノクロ写真群であった。翌年、東京に移住した畠山は、作品の中で田舎と都会との関係性を積極的に問うようになる。また、このころから取り組むようになったカラー写真は、今日に至っても撮り続けている。 畠山の手による初の大プロジェクト「Lime Hills(石灰の山)」(1986〜1990年)は、日本の至るところに点在する石灰岩の採石場を撮影したシリーズである。採石場を平和的な視点から考察することに物足りなさを感じた畠山は、鉱山技師たちが岩を切り崩すために行う発破の様子を記録し始める。その後発表した「BLAST(ブラスト)」(1995〜2008年)は、技師たちが周到な準備のもとに行う発破の瞬間を連写した作品である。「日本の国が石灰石の国であることを知ってから、都市の景観の意味が、僕の中で少し変化した」と畠山は言う。日本の豊富な石材には様々な用途があるが、その多くはセメントの製造およびコンクリートの骨材に使用される。「コンクリートの質感の中に、二億年から四億年も前に、赤道のそばの暖かな海で暮らしていたサンゴやフズリナの名残を感じるようになった。」[2] 東京を上空旋回する飛行機から見たとき、畠山は以前訪れた石灰石の採石場を重ね合わせた。「果てしなく広がる起伏のある白い広がりは、鉱山で僕が見た石灰石ではなく、東京に林立するビル群だった。そのとき突然気づいたのだ。巨大な空間を穿って採掘された鉱石はただ消滅してしまったのではなく、はるばるここまで運ばれてきて、今、姿を変えて僕の目の前に在るのだと。」[3] 「Untitled」(1989〜2005年)は、畠山が都市を遠方から撮影したシリーズである。ときには個々に、またときにはグリッド上に並べて展示されるこれらの写真群は、まるで地質断面図のように見える。当シリーズを機に、畠山は日本の都市構造に強く焦点を合わせるようになる。「River」(1993〜1994年)は、東京の建築構造と、街中に点在する建造物のすぐ下で妖艶に輝く水面を同時にファインダーに収めたシリーズである。「Underground」(1998〜1999年)では、都会の下に広がる下水道に光源を持って入り込み、そこに潜むものを写し出した。また、高層建築を夜間にライトボックスで背後から照らして撮影した「光のマケット」(1995〜1997年)は、建物が自ら神秘的な光を放っているように見える。「Untitled, Osaka」(1998〜1999年)は、一時的に設置されたモデルハウスの展示会と、会後の建物の取り壊しの様子を隣り合わせで発表したものである。これらのような都市に存在する事象に特殊な美を見出す畠山は、それをあくまで客観的に、評価も批判もすることなく表現する。 畠山はまた、過去と現在のヨーロッパにおける自然と文化との関係性を考察してきた。「Ciel Tombé(シエル・トンベ)」(2006〜2008年)は、都市構築のために採掘された石を使って何世紀もかけて造られたパリ北部のトンネルが、今や老朽化のため崩壊しつつある姿を撮影したシリーズである。当シリーズと関連性を持つ写真(1991年撮影、2011年プリント)は、同じ地域を上空から撮影したものである。北欧における採掘作業の廃止の様子を記録したシリーズ「Zeche Westfalen I/II Ahlen」(2003〜4年)には、かつて地元の人々を支えた鉱業の貢献を記念してユネスコ世界遺産に登録された地域も含まれている。この他、「Terrils」シリーズ(2009〜10年)では、完璧なフォルムを見せるボタ山(石炭などの採掘に伴い発生する捨石の集積場)の持つ自然美を撮影している。 2011年に東北地方を襲った大震災と津波は、日本にとって、そして畠山個人にとっても悲劇的な瞬間であり、これを機に彼の写真家としてのアプローチは変容を遂げる。壊滅的な地震と津波は畠山の故郷をほぼ跡形もなく破壊し、また彼にとって大切な人たちの命を奪った。震災の直後から、畠山は災害がもたらした破壊の状況を調査するにとどまらず、繰り返し東北に足を運び、復興の過程で著しい変化を遂げる被災地の現状を自身の肌で感じ取ったのである。この経験が、彼の写真への取り組み方を、特にアーティストとして制作した写真作品と私的な写真とを区別するという行為を再考するきっかけとなった。「陸前高田」(2011年)は、畠山が過去に撮った私的な写真と被災地の復興の過程を記録した写真を組み合わせて構成されている。[4] そしてついに、畠山は観察という行為自体を考察するに至る。夜間にホテルの寝室で撮影されたシリーズ「CAMERA」(1995〜2009年)は、畠山が訪れた数々の滞在場所で数年に亘って撮り溜められたものである。写真家がベッドの上から見た、読書用ランプに照らされた室内の様子を写し出した写真群は、光に照らされた部分のみを捉えている(cameraはイタリア語で〈部屋〉を意味する)。写真の本質を深慮するこれらの作品は、写真という媒体が外界の省察に深く関わるものであるにも関わらず、そこから敢えて離れ、その内在的、認知的、分析的性質を際立たせている。 サンドラ・S・フィリップス 著 十文字素子 訳 注 2013年1月、静岡県長泉町IZU PHOTO MUSEUMにて開催のアーティストトーク参照。 畠山直哉『LIME WORKS』東京:シナジー幾何学、1996年、54頁 2006年9月、サンフランシスコPhotoAllianceにて開催のアーティストトーク参照。 畠山直哉(再引用):ステファン・バーグ「水辺まで下がる(“Down to the Water Line”)『ナオヤ・ハタケヤマ』、ステファン・バーグ(編)シュトゥットガルト:ハチェ・カンツ出版、2002年、12頁 2015年4月、ボストン美術館にて開催のアーティストトーク参照。
  • 細江英公

    細江英公

    1933年、山形県米沢市出身

    細江英公(1933年生まれ)の主要作品は、戦後日本の活力に満ちた、ダイナミックな文化と直に絡み合っている。国が貧困から抜け出してアメリカと曖昧な関係を築くにつれ、人々は三島由紀夫の小説『禁色』に描写されているような既成の価値に対する徹底的な拒絶を受け入れるようになっていた。第一部が1951年、第二部が1953年に出版されたこの三島作品は、同時代の東京に花開いた同性愛社会を描いており、常識をくつがえすような解放的なその世界観は日本の前衛芸術家たちを大いに刺激した。細江といえば、三島本人からの依頼で制作した膨大な数のポートレートのシリーズで最もよく知られている。美しく鍛えられた三島のセミヌードの肉体を捉えたこの 作為的な写真シリーズは、1963年に『薔薇刑』と題して書籍化されて以来、細江の主要な功績とみなされてきた。非常に挑発的な三島のポートレートは、豪奢なネオ・ロココ様式の三島邸で撮影されたもので、背景にはサンドロ・ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』(1485年頃)など、ルネサンス期のイタリア絵画から取り入れたモチーフが手描きで施されており、コントラストが強く、粒子が過剰に粗くなるように処理されている。演劇的で、異質で、力強く、このシリーズは写真という表現手法ならではのものである。『薔薇刑』は、1970年には三島の付記を加え、三島の意向によって英語版の題名は Killed by RosesからOrdeal by Rosesに改められた。三島が公然と壮絶な割腹自殺を遂げる、ほんの少し前のことである。 細江の初期の作品は舞踊を撮影したものも多く、とりわけ暗黒舞踏に重点を置いている。暗黒舞踏とは、1960年代に土方巽が作り上げた、当時の舞踊の傾向に反する反モダニスト的な舞踊の形態である。これらの写真には鬼気迫るものがあり、親密でありながらも演劇的な設定で舞踏家の身体の細部を浮き彫りにし、性別、年齢、肌の色の違いが際立つよう撮影されている。おそらく、その中でも代表的なシリーズであり、明白な演出がなされていないものは、1969年に書籍化された『鎌鼬』だろう。細江はこれらの作品を土方とともに、二人が戦前に生を享けた東北地方で制作した。細江は土方を、害悪も恩恵ももたらさない「鎌鼬」と呼ばれる魔物の化身として撮影した。土方は農作業中の農夫たちの中に入って行ったり、ドラマティックかつ残酷に女性をさらったり、子どもにつきまとったり、赤ん坊を抱いてきらめく田んぼを駆け巡ったりするなど、〈鎌鼬〉となってふざけて回った。これらの奇妙な遭遇は、謎めいた原初的な日本を表すとともに、このシリーズが制作された時代の緊張と不安を反映しているように思われる。『鎌鼬』ほどの知名度はないが、1970年に制作されたまま2012年まで書籍化されなかった「シモン 私風景」は、魔物となった土方が東北の田園に出没したのと非常に似た手法で、東京に住まう女形役者を追ったシリーズである。これらは、細江の独自性が最も光る作品群だと言えるだろう。 細江はまた、究極の可能性を秘めた芸術形態としての写真を育むために尽力し続けている。1959年、写真家の緩いつながりからなるVIVOという団体を共同設立。メンバーには東松照明、川田喜久治、奈良原一高をはじめとする、写真界の革新者たちが名を連ねていた。細江は日本の写真の発展に数々の貢献をしてきたが、特筆すべきは、ほかに先がけて海外の写真界とのネットワークを築いたことだろう。アメリカの写真界とは1960年代から交流があり、当時、その点で彼に肩を並べる者はいなかった。細江は父親の暗室で写真を現像していた学生の頃に英語も学んでおり、最初期の作品は雑誌『ライフ』の様式から大きな影響を受けていた。初期のプロジェクトのひとつに、キャプション付きの架空フォトエッセイ『東京のアメリカ娘』(1956年)がある。当時、『ライフ』は東京のアメリカ文化センターで簡単に入手できた。細江はそこで、1953年にエドワード・ウェストンの個展を見たと回想している。英語が堪能だったからこそ、細江はさまざまな関係を築くことができた。1964年に初めて渡米し、ニューヨーク州ロチェスターにあるジョージ・イーストマン・ハウス(現ジョージ・イーストマン・ハウス国際写真映画博物館)でネイサン・ライアンズと面会した。それから何度かライアンズを訪ね、細江は同館のコレクションを活用して写真の歴史を包括的に見せる「世界の偉大なる写真家たち—ジョージ・イーストマン・ハウス・コレクション展」(1968年)という展覧会を企画し、日本にも巡回させた。それから10年の間に、細江はフランスからヨセミテまでどこへでも行って―主にアンセル・アダムス、ジャック・ウェルポット、ジュディ・データーらアメリカ人の写真家と―ワークショップを行い、写真以外の表現手法で制作する重要なアーティストたちとも出会っている。スペインの画家であり彫刻家でもあるジョアン・ミロはその一人である。細江は現在も日本の写真界を代表する指導者であり、山梨県北杜市にある清里フォトアートミュージアムでは1995年の開館当初から館長を務め、次世代の写真を支援すべくさらなる取り組みを続けている。 サンドラ・S・フィリップス 著 松浦直美 訳
  • 石内都

    石内都

    1947年、群馬県桐生市出身

    石内都(1947年生まれ)は、当時日本で最も大きいアメリカ海軍基地を擁した横須賀で育ち、市内のアメリカ人地区、その中でも特に米兵が日本人女性と親密に交わった飲み屋地帯には近づかないよう言われながら幼少期・思春期を過ごした。その一帯では暴力沙汰が絶えなかった。一刻も早く横須賀を離れたかった石内は、1966年に横須賀を離れ東京にある名門校・多摩美術大学に入学し、デザインを専攻。1969年、石内は当校を一年近くも閉鎖へと追いやった学生運動に参加する。この運動は大学の経営改革、そしてアメリカが日本に及ぼす影響への抵抗を目標に掲げて日本中を席巻した一連の学生デモの一つであった。石内はそのころ台頭し始めた女性運動にも加わり、二人の女学生とともに婦人グループを結成する。 もともと染色を学んでいた石内だが、1975年には意欲的に写真を撮影するようになっていた。石内は自身の過去と向き合い、そこから主となる主題を見出した1976年、石内は横須賀に戻り、ベトナム戦争の終結とともに減少の一途を辿っていた米国軍人たちを撮影する。再び訪れた横須賀を「何百もの真白い印画紙に黒々と吐き出した」[1]と石内は言う。父親を説得し、彼が娘の花嫁持参金として貯めていたお金を資金に、1978年、石内は横須賀で撮影したこれらの写真を初写真集『Apartment(アパートメント)』として出版。これに続き、横須賀の写真をまとめた二冊の写真集『Yokosuka Story(絶唱、横須賀ストーリー)』(1979年)と『連夜の街Endless Night』(1981年)を発表。後者において石内は、かつて自分を苦しめた酒場や売春宿という存在が今や廃れているその姿に焦点を当てている。横須賀という地が自身の内に残したものの重要性をしっかりと受け入れるべく、1981年、石内は地元のキャバレーを間借りし、当シリーズの展覧会を開催。彼女はのちにこう語っている、「横須賀の中のアメリカで、アメリカの中の横須賀で、2つの戦争によって栄えた町の、見る影もなくなった通りで、カタキを討つような様子で写真展は開かれた。」[2] 石内の手による横須賀の撮影は1990年に終わりを告げる。 際立った静けさを湛えながらも心を引き裂かれるような激しさにも満ちた、そんな石内の独特な日本に存在するアメリカへの視点は、写真誌『カメラ毎日』の名編集者・山岸章二の目に留まった。山岸が1979年にニューヨークの国際写真センターで企画した「Japan: A Self-Portrait(日本:自画像)」展に、石内は唯一の女性作家として参加する。こうして国際的な活躍の場を得た石内の一種独特の眼差しは、楢橋朝子を始めとする日本人女性写真家の注目を集めた。石内はのちに、楢橋と共同で写真誌『Main(マン)』(1996〜2000年)を創刊。1984年、故山岸章二の妻・山岸享子は、大判ポラロイドカメラを使ったプロジェクトへの参加を石内に依頼する。これを好機とした石内は、20年来の高校の同級生を撮影し、同年、「同級生」シリーズと題して発表。この経験が、石内の写真家としての主題の幅を広げ、またその方向性を大きく変えるきっかけとなる。トラウマとなった場所、つまり石内にとっての横須賀、を被写体にしていたが、代わりにトラウマが肉体に与えた影響、そして第二の皮膚である衣服に残された痕跡を撮るようになる。1987年にスタートし、1990年に写真集として出版したプロジェクト『1・9・4・7』は、石内と同じ1947年生まれの女性たちの手と足をクローズアップで撮影した作品である。もう若くはないが、まだ年老いてもいない— そんな自分と同い年の女性の身体がどのように見えるのかを詳細に写し取った本シリーズにおいて、石内は被写体となった女性たちの生まれ年と職業のみを明かしている。こうして身体の表面に対する関心を高めていった石内は、続いて『scars(傷跡)』(1991〜2003年)を制作。石内は常々、人間の体に残された傷跡を写真そのものになぞらえてきた、「傷跡を見せられると私は撮ることを考えてしまった。人は汚れなくあり続けたいと願望しながら、見える傷、見えない傷を負って生きざるをえない。そんな傷は身体に刻まれた過去の痕跡なのだ。」[3] 1999年を迎える頃、石内は母親の写真を撮り始めた。その視線は、特に母親の体に残された傷跡や彼女の年老いた肉体に注がれている。母親が突然他界した翌年以降も同じ主題を追い続けた石内は、母親が生前着ていた衣服や身の回り品などの遺品にカメラを向けた。使いかけの口紅や蜘蛛の巣のように置かれた着古した下着などを撮った記念碑的なシリーズ「Mother’s(マザーズ)」は、2005年、ヴェネツィア・ビエンナーレの日本パビリオンで展示された。さらに近年、広島の原爆投下後に発見された衣服をライトボックスの上に広げて撮影した作品群は、かつてそれらを身にまとっていた者たちの人柄を物語るかのようである。明らかに着用の跡があり、その多くが手縫いで作られた衣服は、原爆という悲惨な歴史を具象化すると同時に、着ていた人たち一人一人の個性を表出し、その人たちの精神までも宿しているように思える。 サンドラ・S・フィリップス 著 十文字素子 訳 注 石内都『Yokosuka Story(横須賀ストーリー)』東京:写真通信社、1979年、頁不記載;再引用:アマンダ・マドックス「Against the Grain: Ishiuchi Miyako and the Yokosuka Trilogy(流れに逆らうー石内都と横須賀トリロジー)」『Ishiuchi Miyako: Postwar Shadows(石内都—戦後の影)』ロサンゼルス:J・ポール・ゲティ美術館、2015年、23頁 石内都『YOKOSUKA AGAIN 1980–1990』東京:蒼穹舎・モール1998年;再引用:マドックス「Against the Grain」、28頁 石内都『scars』東京:蒼穹舎、2005年、頁不記載
  • 川内倫子

    川内倫子

    1972年、滋賀県東近江市出身

    川内倫子(1972年生まれ)は、1960年代末から70年代初頭にかけてのプロヴォーク時代に確立された暗く、荒っぽいスタイルで制作する写真家とは対照的により抑制の効いた、叙情的な美学を20年以上に渡って追求してきた。川内のレンズを通すと、ごくありふれたものや出来事が多くの場合、日常生活における儚さ、壊れやすさ、不吉さまでをも際立たせる崇高なイメージとなる。 川内は滋賀県大津市の成安造形大学で、グラフィックデザインを専攻し、その一環として写真を学び、1993年の卒業後、広告制作会社に就職した。その後数年のうちに川内はアートの分野に目を向けるようになり、2001年には『うたたね』、『花火』、『花子』という写真集を三作同時に刊行、その後、権威ある木村伊兵衛賞を受賞するなど、急速に国際的な認知度を高めていった。これらの写真集に文章はほぼ皆無で、写真イメージがページを越えて共鳴し合う力でそれぞれのナラティブ(物語)を作り上げている。窓の外へと吹かれるカーテン、流しの排水口に集まる洗剤の泡、縄跳びをする子どもといった日常的なシーンは、この世界における非常に私的でふたつとない体験を示すとともに、ひたすら対象をみつめるというひたむきな実践のあらわれのように思われる。川内のトレードマークともなった『うたたね』の抑制された色彩は、夢のような、空気のような雰囲気を醸し出し、彼女の作品に飾らない謎めいた構図を引き立てている。同様に、川内は『花火』で夜空に花開く花火を半ば抽象的なスケッチのように表現しており、形態よりもさまざまな光の効果を捉えようとしているように見受けられる。 川内の詩的なイメージはその後のシリーズにおいても展開されていく。2005年に刊行された『the eyes, the ears』は、それまでの作品群に見られるような静謐な写真で構成されているが、それぞれの作品には、写真と同様じくさりげない、アーティストの言葉で綴られた短い文章が添えられている。2013年のプロジェクト、『あめつち』は、さらに抽象的な領域へと向かう。川内が最初は夢で見た、野焼きの風景を中心に位置づけ、その過程を捉えている。野焼きとは、計画的に野山を焼き払うことであり、何世紀にも渡って熊本県阿蘇で毎年行われてきた。そうすることで、草を食む家畜のために草原を維持し、よみがえらせるのだ。野焼きが最終的にもたらすのは再生だが、川内が撮影した燃える丘は間違いなく郷愁を誘う。『あめつち』は『うたたね』の静けさとの決別のようにみなされるかもしれないが、どちらにも共通して見られるのは、川内が「循環や人々の行っているサイクル」と呼ぶものに対する、彼女の尽きることない関心である。[1] マット・クラック 著 松浦直美 訳 注 「川内倫子が世の中の小さな謎を考察する 」 (ビデオ・インタビュー)2016年3月、サンフランシスコ近代美術館 https://www.sfmoma.org/watch/rinko-kawauchi-contemplates-small-mysteries-life/
  • 北島敬三

    北島敬三

    1954年、長野県須坂市出身

    写真同人誌『PROVOKE(プロヴォーク)』は1968年から1969年の間に3号しか発行されなかったが、その後の世代の写真家に大きな衝撃を与えた。北島敬三(1954年生まれ)は、『プロヴォーク』の「アレ、ブレ、ボケ」といわれるスタイルと、主体性、反商業主義といった理念をいち早く作品に取り入れた、最も有名なアーティストのひとりだった。 1975年、北島はワークショップ写真学校という、プロヴォーク周辺のメンバー数人が雑誌の廃刊後に立ち上げた学校に通い、森山大道に師事した。このクラスが基礎となり、北島は森山を生涯の師と仰ぐようになった。その翌年、ふたりは東京の新宿区にイメージショップCAMPを設立した。これは、当時いくつも立ち上げられたアーティストの自主ギャラリーのひとつで、展覧会スペース、暗室、志を同じくする写真家たちが集まる場として機能していた。このギャラリーで1979年の1月から12月までの毎月、北島は東京のあちこちで撮影した実験写真の連続展を開いた。展覧会には『写真特急便・東京』と題した小冊子が添えられた。これらの写真は「アレ、ブレ、ボケ」というプロヴォークの美学を受け継いでいるものの、北島独自のやり方で、好況に沸く日本の消費者文化を捉えている。対象に寄り、熱狂する人間を前面に出し、脈動する歓喜のエネルギーを一枚一枚に吹き込んでいる。 森山の勧めで、北島は制作の場を東京以外にも広げ始めた。過去に新宿の猥雑で生き生きとしたナイトライフに刺激された北島は、1980年に沖縄県のコザ市(現在の沖縄市)の赤線地帯に目を向けた。米国は、第二次世界大戦が終わると沖縄の嘉手納に空軍基地を設置した。そして1970年、嘉手納に隣接するコザは沖縄に駐留し続けるアメリカ軍への激しい反対闘争の場となった。『写真特急便・沖縄』に掲載された北島の写真は、ワイルドで緊張をはらんだセックスと金と文化の交流という、10年経っても相変わらず日本国民とアメリカ兵とのかかわりを特徴づけていたものを捉えていた。北島はニューヨークにも赴き、1980年代の退廃的で過剰な様相の極みを、白黒とカラーの両方で撮影した。よそ者だからといって臆することなく、北島は東京での撮影と同じように、ニューヨークの街なかで対象にぐっと寄っている。対象とじかにかかわるこの撮影法は、1982年に『NEW YORK』と題して出版された写真群によくあらわれている。写真集は絶賛され、北島に権威ある木村伊兵衛賞をもたらすとともに、1995年にはコムデギャルソンのルックブックに採用されている。 1990年、木村伊兵衛賞を創設した朝日新聞社が、北島にソビエト連邦をくまなく旅し、連邦を構成する多数の共和国の人と場所の多様性を撮影するよう依頼した。北島は崩壊直前のソ連の様子をつぶさに撮影し、膨大な写真記録を作り上げた。ソ連は、1991年12月26日、北島が撮影旅行を終えたちょうど一カ月後に正式に解体した。この思いがけないタイミングのおかげで「USSR 1991」シリーズにはかなりの歴史的な重みが付加され、これらの写真の解釈に大きな影響を及ぼした。撮影された人物の中には疲弊をにじませている人が何人もいる。彼らはソ連時代以前の文化的・国家的アイデンティティーの名残とも言える品々を握りしめており、避けることのできないソ連解体の予兆を示すかのようだ。北島の撮影した風景は間違いなく衰退の一途をたどるユートピア的理想を表現しているのに対し、共感を誘うポートレートは人々の回復力と多様性を捉えている。 現在も北島は日本の写真界で精力的に活動し、多くの作品を制作している。ストリートスナップから主にスタジオ写真へと移行し、北島は大規模なシリーズを現在進行形で制作している。人々と人間の手による建造物を撮影したそのポートレートシリーズは、過去20年間にたびたび展示されてきた。北島は若い世代の写真家の支援にも常に関心を寄せ、2001年には新宿にphotographers’ gallery(フォトグラファーズ・ギャラリー)という、展覧会スペースであり出版も手掛ける、アーティストの自主運営ギャラリーを設立している。 マット・クラック 著 松浦直美 訳
  • 森山大道

    森山大道

    1938年、大阪府池田市出身

    叙情的で表現主義的な感性で写真界を牽引する存在となった森山大道(1938年生まれ)は、戦後の日本の日常における感情の変移をひたむきに撮り続けた写真家である。森山は都内で育ち、終戦後の、日本が〈解放者〉による占領と政治的圧力に屈しつつも経済大国として成長していくさまを体験して成長した世代である。これらを含む様々な出来事に触発され、森山は自身の創作に急進的な手法を用いるようになる。「混沌とした日々の生活が、日本そのものだと思う」と森山は言う。「僕が思うに、こんな芝居がかった状況は、単にメタファーなだけでなく我々の現実でもあるんだ。」[1] 先達の写真家・細江英公が小説家・三島由紀夫の大胆で性的な演出を施した肖像写真の撮影を行っていた頃、森山は細江のアシスタントを務めていた。森山はその後、ニューヨークの疎外感に溢れた社会を挑発的に、そして生々しく表現したウィリアム・クラインとアンディ・ウォーホルの写真作品に出会う。当時逗子に住んでいた森山は、近くにあった米軍基地を目にし、その場所の生命力と肉体的放蕩に感化された。逗子にはベトナム戦争に派遣された米兵が溢れており、ジャズ音楽、安酒場、そこにたむろする種々雑多な常連たち、米兵のあり余った活力といった、その地ならではの文化に惹かれた。非政治的なスタンスを取り続けた森山は、その時代が宿していた特有の複雑さや闇の持つ曖昧さといったものの中に主題を見出したのである。 森山は1960年代半ばより、定評の高かった『カメラ毎日』を始め、アマチュア写真家向けに出版された複数のカメラ雑誌に定期的に寄稿するようになる。森山が関わったこれらの出版物は、報道写真寄りの作品ではなく詩的な作品を好むものであった。森山が大衆娯楽や寺山修司による実験劇場などを題材にして撮った写真は、彼の初写真集『にっぽん劇場写真帖』(1968年)に収録されている。ジャック・ケルアックの崇拝者だった森山は彼の作品『路上(オン・ザ・ロード)』に触発され、日本中をヒッチハイクしたり、同乗させてくれるドライバーを探して、出来たばかりの高速道路を昼となく夜となく走り回り、人けのないカフェや車窓からの景色を写真に切り取った。こうした作品は1968年以降『カメラ毎日』に連載されるが、森山はその後何十年もの間、日本各地や街中をたゆむことなく動き続けた。友人・中平卓馬の紹介で、森山は実験的な写真同人誌『プロヴォーク』(1968〜1969年)に参加。政治色の強いこの雑誌関係者に携わる間も、彼が非政治的なスタンスを崩すことはなかった。ウォーホルを彷彿とさせるシリーズ「アクシデント 」(1969年)は、トリミングや粗粒子の技法を思い切って取り入れたり、交通安全のポスターを元にした写真を複写し、それを再構成するなどして制作された作品は森山の実験的な試みの一つである。1974年、森山は1971年のニューヨーク滞在中に撮った写真を複写・製本する。彼が愛したもう一人の小説家ジェイムズ・ボールドウィンへのオマージュを込め、森山はこのゼロックスコピー写真で構成された写真集を『《もう一つの国》ニューヨーク』と題した。 森山の作品は、1970年の日米安全保障条約改定に対する抗議運動、その後の日米間の政治的対立の緩和、消費者主義の拡大といった、当時の深刻な政治的分裂に照らして見ることで真の意味を理解することができる。1970年代は森山にとって多くの作品を生み出す時代だったが、それと同時に70年代半ばに差しかかる頃には、彼は精神的に不安定になっていた。1972年、森山は二冊の意義深い写真集『狩人』と『写真よさようなら』を出版し、個人写真誌『記録』も刊行する。『狩人』には、森山作品の中で最も広く知られた迫力あるハイコントラスト写真が収録されている。『写真よさようなら』は、美しいまでに実験的な一冊で、彼のウォーホルへの尽きることのない関心が伺える—ブレが激しくトリミングも大胆な写真群は、何も写っていないテレビ画面や空中に浮かぶヘリコプターなどを被写体としているが、その多くは何を捉えているのか殆ど判別がつかない。これらの写真は悲劇的で虚無的な空気を放つ。そんなムードにふさわしく、本書の序文には森山と友人の中平との対談が収録されている。対談の直後、中平は深刻なアルコール中毒症に陥ることとなる。 森山がこの張り詰めた状態から抜け出すのには数年かかった。彼は地方に足繁く通うようになり、まだ産業化の波が押し寄せていない日本の片田舎を写した作品をまとめた「遠野物語」(1974年制作、1976年出版)を出版。その写真群は、どこか奇妙で見る者を狼狽させる、現実逃避な様相を呈するものではなかった。その年、海外からの森山への関心も高まりを見せた。1974年、森山は、ジョン・シャーカフスキーと山岸章二が共同キュレーターを務め、ニューヨーク近代美術館で行われた「New Japanese Photography(ニュー・ジャパニーズ・フォトグラフィー)」展に参加。当展覧会は翌年、サンフランシスコ近代美術館でも巡回展として開催された。森山のこうした成功は、写真が日本における一つの特有な芸術表現として認識されたと時を同じくした。彼の功績は、同年、東京国立近代美術館で開催された「15人の写真家」展でも大きく取り上げられることとなる。 森山の実験的な姿勢は、今日に至っても崩れることはない。また、拡大版の書籍形式で古い作品と近年の作品を組み合わせるなどして、自身が以前に手がけたプロジェクトを再考している。長きにわたる活動休止の期間を経て制作された『光と影』(1982年)に収録された写真作品は、新たな、目がくらむほどの鮮明さに溢れている。1990年に出版した『サン・ルゥへの手紙』で森山は、1827年にフランスの発明家ニセフォール・ニエプスが作った世界初の写真画像が、彼にとっていかに大きな意味を持ったかを語っている—ニエプスの写真はキメが粗く混沌としているが、中庭の一方からもう一方へと移り行く太陽の軌跡を実によく捉えている。[2] 近年、森山は、70年代にも稀に手がけていたカラー写真の制作を再開。特注のカメラで撮られた新たなカラー写真は、過去の粗野な作品と対照を成す率直さを持ち、正常感すらも備えている。 サンドラ・S・フィリップス 著 十文字素子 訳 森山大道 Stray Dog 注 森山大道、サンドラ・S・フィリップスへの手紙、1998年頃;再引用:「Daido Moriyama: Stray Dog(森山大道 展覧会図録)」サンフランシスコ近代美術館、1999年、32頁 森山大道「あの、サン・ルゥの夏の日」『サン・ルゥへの手紙』東京:河出書房新社、1990年、頁不記載
  • 中平卓馬

    中平卓馬

    1938年、東京都渋谷区出身
    2015年、神奈川県横浜市没

    中平卓馬(1938〜2015年)は、写真のラディカリズムの牽引者として近代写真の臨界へと疾走したのち、それまでに獲得した言語と記憶を失うという病を経て、写真それ自体の「原点」へと辿り着いた写真家だと言えるかも知れない。 中平は、1963年に東京外国語大学のイスパニア学科を卒業し、いくつもの職を転々としたのち、新左翼系の雑誌『現代の眼』の編集者となる。写真への関心の高まりは、編集部でグラビアページを担当していた東松照明に出会ったことがきっかけとなった。東松の誘いで日本写真家協会が主催する「写真100年−日本人による写真表現の歴史」展(1968年)の編纂委員となった中平は、膨大な写真を目にする過程で写真家に転身した。詩か写真か迷った末の決断だった。この年の写真同人誌『PROVOKE(プロヴォーク)』の創刊は、同じく編纂委員であった多木浩二との邂逅によるところが大きい。同展の編纂作業において過去の写真表現を振り返り、それらを否定し、乗り越える形で、写真の前衛に躍り出たのが『プロヴォーク』であった。『プロヴォーク』には、2号から中平に誘われた森山大道が参加する。森山や中平の写真に特徴的なモノクロームの荒れた粒子や傾いた構図、ボケた焦点などは、「ブレボケ写真」と揶揄されたが、彼らにとっては、不確かで流動する世界においては、こうした写真の方が「はるかに肉眼に近い」ものであったと言う。 『プロヴォーク』は3号まで発行され、単行本『まずたしからしさの世界をすてろ』の出版後、1970年に廃刊となる。既存の写真美学の否定形としての荒々しい映像は、「ブレボケ写真」と名指しされ周知されることで、初発の衝撃力を失おうとしていた。この前後に中平は、国際展への出品を行っている。1969年の「第6回パリ青年ビエンナーレ」への出品のために、荒涼たる年都市の夜景を写した6点組の「夜」をグラビア製版によるプリントで制作している。中平の最初の写真集『来たるべき言葉のために』(1970年)には、中平生来の詩的な感性と写真そのものへの批判が反映された傑作であった。1971年には、「プロヴォーク」のメンバーであった岡田隆彦が日本コミッショナーを務めた「第7回パリ青年ビエンナーレ」に「サーキュレーション—日付、場所、イベント」と題したプロジェクトで参加した。それはパリの街で目にしたあらゆる事象を無差別に撮影し、その日のうちに会場に貼り巡らせるという実験的な行為だった。 中平は1973年のエッセイ「なぜ植物図鑑か」において、「私のイメージによって世界を型どろう」とした情緒的な表現であったと自身の手で否定し、ネガやプリントの多くを焼却する。そしてこの文章の中で情緒や陰影という曖昧さを退け、あらゆるものを並置する「植物図鑑」のようにカラー写真を自らの方法とすることを宣言する。「ブレボケ写真」と形容され、広告表現にまで流用されるようになった手法と手を切ろうとした中平は、徐々に写真家としてスランプに陥ったこともあり、徐々に文章を書く仕事の量が増えるようになる。 1973年には、新聞に掲載された沖縄ゼネストの写真がきっかけとなり警官殺害の罪に問われた青年の裁判支援闘争を機に初めて沖縄へ訪れ、この地への関心を深めていく。中平が沖縄本島から島々を北上しながら『アサヒカメラ』に発表した連作「奄美 波と墓と花、そして太陽」(1976年)や「国境・吐噶喇列島 無人化する島々」(1977年)は、本土と沖縄との文化的な境界線を探る試みであった。これは沖縄から東南アジアに南下しながら環太平洋地域を同質性においてグラデーションでつないだ東松照明の写真集『太陽の鉛筆 沖縄・海と空と人々・そして東南アジアへ』に対する批評的な応答であったに違いない。 篠山紀信が写真を担当し、中平が文章を書いた『決闘写真論』が刊行された1977年9月、中平は友人を招いた自宅でのパーティーの席で急性アルコール中毒で倒れ、一命をとりとめるものの、記憶と言語に重大な障害を残すこととなった。その後、病から立ち直る過程で写真を撮り始め、生活のほとんどを写真に費やす日々が始まる。写真集『新たなる凝視』(1983年)や『Adieu à X』(1989年)、カラー写真だけからなる『hysteric six NAKAHIRA Takuma』(2002年)、『Documentary』(2011年)、『沖縄』(2017年)などはその成果である。 2000年代に再評価への機運が高まり、2003年には、自宅のある横浜で初の本格的な個展「原点復帰—横浜」展(横浜美術館)が開催される。中平は自宅周辺で同じ被写体や場所に出会うたびに撮影し、類似しつつも少しずつ異なるような、反図鑑的とも言えるカラー写真が日々増えていた。こうした撮影は、2011年に体調を崩す直前まで続けられた。それは図鑑が行うような一般化や命名を退け、世界をそっと指示するだけのラディカルな写真だ。   小原真史 著
  • 志賀理江子

    志賀理江子

    1980年、愛知県岡崎市出身

    カメラは武器、道具、目撃者といった多くの物に例えられてきたが、志賀理江子(1980年生まれ)はそれを扉になぞらえる。志賀の作品制作は、自分の足で様々な土地を辿るフィールドワークと人間の日々の体験に深く根差すものであるが、彼女がカメラを手にすると、それは周りの世界を奇妙な幻想として捉え直す術(すべ)となり、手の込んだ演出と照明効果、撮る過程での被写体の積極的な関わり合い、デジタル技術を駆使する代わりに複数のフィルターを使って生み出される色彩などによって、見る物を強烈な異界へと誘う。自身の類いまれな芸術的ビジョンを説明するにあたり、志賀は「人は私を宇宙人と呼ぶんです」と誇らしげに語る。[1] 愛知県・岡崎市の郊外はトヨタを始めとする製造会社で働く人が大半を占める街で、そこで生まれ育った志賀は「〈目に見えるもの〉は全てただの幻想で(中略)私の周りに現実など何一つない」と感じていた。[2] 日々の行動はー陰で何者かに操られているーマジックのようなものだと考えていた彼女は、単に傍観するのではなくもっと人生に深く関わりたいという思いを募らせていく。幼い頃から続けてきたクラシックバレエは、10代に迎えた身体の成長を境に断念したが、志賀は丁度その頃、両親が持っていたオートフォーカスカメラを手に取った。写真はすぐさま彼女の触覚に訴え、それまで自己表現の最適な手段であったダンスに取って代わった。志賀はこう振り返る、「写真紙という物理的なものに自分が思い描くイメージが再現され、そしてそれを自分の手で持てるということが、頭の後ろから殴られたようにショッキングで気持ちよかった。そこにあるイメージと自分の体の距離は事実上すごく遠くて、その遠さがたまらなくよかった。このとき、私は自分の存在をカメラという機械によって再発見したのです。」[3] 1999年に日本を後にした志賀は、ロンドンのチェルシー・カレッジ・オブ・アーツで芸術を学び、その地で約7年過ごした。在学中、彼女は自分の周りにいる友人、ルームメイト、近所の人などを19世紀の心霊写真に倣った場面設定で撮影した。この時期の作品を掲載した写真集『Lilly(リリー)』(2007年)を、志賀は「思春期に感じた空気感」、何か「子供の遊びの裏側に潜む闇」にも似たものを再現する試みと見なした。[4] その年、志賀は2006年から2007年にかけて撮影した写真をまとめた『CANARY(カナリア)』も出版する。『Lilly』が作家の内なる不安の視覚化であるとするなら、『CANARY』は彼女と外なる社会や世界との複雑な関わりの表象だと言えるだろう。志賀はこの二冊の写真集で、名誉ある木村伊兵衛写真賞を受賞した。 2006年に宮城県に滞在し東北の地を知った志賀は、2008年の終わりに同県への移住を決意した。沿岸部に位置する北釡にアトリエを構え、町内写真家の役目を引き受けた彼女は、住民の姿だけでなく、野球の試合、集会所で開かれる会議など、様々な地域活動を記録した。志賀は自ら撮影した写真や地元のお年寄りが語る昔話しなどから、非公式ながらも北釡の歴史を記録し、それを基に地元のコミュニティとその歴史に関する大規模なプロジェクトを打ち立てようと構想を膨らませた。しかし、2011年3月11日の東日本大震災で発生した津波によって北釡が壊滅状態に陥ると、彼女の眼差しはその方向を変えることになります。志賀自身は災害を切り抜けたものの、彼女の住まいとアトリエ、そこに保管されていた作品などの所有物は全て津波に飲み込まれ、流される。震災後の2年間を仮設住宅で暮らしながら、志賀は瓦礫の中から見つけた持ち主の分からない写真をきれいにし、それをデジタル化するなどの作業に没頭する。2013年、志賀は『螺旋海岸』と題した展覧会を開催、また同タイトルの写真集を出版し、津波が襲った後の北釡とその住民たちの様子、そして震災前に撮影し、東京に保管していたため無事だった同地区の写真を対比させる形で発表する。この企画を「引き裂かれたコミュニティへの哀歌」と解釈することもできますが、志賀はそれが震災によって定義されることに難色を示します。[5] 北釡の住民一人一人と密な関係を築いていく中で、彼らの惜しみない協力を得て実現した当シリーズの撮影をきっかけに、志賀は写真家としてのそれまでの在り方を振り返り、「〈写真〉との出会いから約15年間は、己の内側にある支配的な気持ちの延長線上にあるような写真を撮り続ける日々だった」[6]と気づいた。 志賀は現在も宮城県の農村地域に身を置き、様々な社会政治的問題、哲学的な問い、人間の持つ懸念といった事柄と関連づけながら、写真を撮るという行為を通じて地元の状況を考察し続けている。最近手がけた企画『ヒューマン・スプリング』(2019年)で、志賀はこの宮城の地を、平成という時代(1989〜2019年)に日本社会が経験した進化と生と死の循環の両方を象徴する風景として見つめている。 アマンダ・マドックス 著 十文字素子 訳 注 志賀理江子、著者との会話より、2019年3月5日 著者との会話より、2018年12月4日 志賀理江子「イントロダクション—北釜へ」『螺旋海岸|notebook』東京:赤々舎、2012年、14頁 著者との会話より、2019年5月11日 アン・ニシムラ・モース、アン・E・バヴィンガ「Reflections in the Wake of 3/11」『In the Wake: Japanese Photographers Respond to 3/11 (震災以後:日本の写真家がとらえた3.11)』ボストン美術館、2015年、152項 志賀「イントロダクション—北釜へ」、14頁
  • 東松照明

    東松照明

    1930年、愛知県名古屋市出身
    2012年、沖縄県那覇市没

    東松照明(1930〜2012年)は、絶望と感嘆、怒りと喜びなど、両極にあるものを危うい均衡で捉え、第二次世界大戦後の自国に根深く存在した衝突、葛藤を視覚化した写真家である。東松の作り出す鮮明でいて優雅な作品は必ずしも多くを語るものではなく、むしろ刹那的で、平凡な瞬間の記録と言える。彼は戦後の日本が歩んだ道や日本とアメリカの不明瞭な関係に目を向けた最初の写真家で、この主題に強い信念を持って取り組んだ。自国の米国化を問題視し続けた東松の作品からその傾向が薄らぎ始めたのは、晩年になってからのことである。 名古屋に生まれた東松が終戦を迎えたのは彼が15歳のときだった。「被害体験しかもたないのが、戦争を知っている子供たちの特徴である」[1]と東松は語った。温情ある恩師の支えと岩波書店が一般読者向けに小規模に出版していた美しい写真集の数々が、東松を写真の世界へと導いた。彼は1954年から1956年までの短期間、岩波写真文庫に勤務している。自分一人で作業の全行程を進められる写真制作は東松の性に合っており、手がけたプロジェクトの殆どは彼が自発的に行ったものであった。写真家になって間もない頃の東松の作品は、終戦後に自国がいかなる変化を遂げたかを肉薄している。彼はのちにこう述べている、「敗戦を境として明暗がはっきり見えてくる中で、価値が180度転換する。(中略)その時代に、最も多感な年齢を過ごしたということは、一生そのフィルターを通してすべてが見えてしまうといえるくらいの強烈な時代体験であってね。」[2] 東松の最も初期のシリーズ「傷痍軍人・名古屋」(1952年)と「やきものの町―瀬戸」(1954年)は、戦後の貧困と、戦前の職人文化が終戦後も粘り強く生き残った様を記録したものである。のちに制作したシリーズ「家 熊本・天草下島」(1959年)において東松は、日本の伝統の持つ美しさや豊かさを認識する一方で、農村地域の人々が強いられた持続困難な生活にも目を注いだ。 写真家としてのキャリアがまだ浅いうちに、東松は自分の作品が特定の主題を表現しているだけでなく、見る人に隠喩的なレベルで共感しうることに気づく。彼の作品は真実の報道ではなく〈印象だけの写真〉に過ぎないという批判に対し、東松は「(自分は)事実尊重を捨てたおぼえはなく」、ただ「写真の動脈硬化を防ぐためには〈報道写真〉にまつわる悪霊を払いのけ」 [3]る必要があったのだと語っている。シャベルを手にした労働者の脚に泥が飛び散った様を背後から撮った写真は、日本が陥っていた状況、特に1950年代から1960年代にかけて農村の住民たちが直面していた現実を正直に切り取っているが、これは同時に、日本の再生とこの国が本質的に備えていた肥沃さの表象でもある。東松はあくまで報道写真とは違った角度から自国の抱える問題に対峙した。編集者・山岸章二が指揮を執るようになってから主に日本の新しい写真作品を世に送り出すようになった『カメラ毎日』を筆頭に、複数のアマチュア向け写真誌が幸運にも東松のこうした姿勢を後押ししたのである。 1959年までに東松は、主題を見出し、のちにまた同じ主題へと回帰する、または過去を物語る主題を現在の中に見出すという行為を繰り返すようになっていた。このアプローチを代表するのが「敗戦の記憶 愛知・豊川海軍工廠跡」(1959年)に見られるような、日本の終戦後の状況と、その近代化の中でも消えることなく在り続けた過去を写し取った作品である。「日本が不死鳥のように蘇ったのは廃墟からである」と東松は言う。「この地点からしか出直すことができなかった」[4]のだと。幼少時を過ごした家の解体に端を発したシリーズ「水害と日本人」(1959年)は、水害の破壊的な力だけでなく、その再生の力も表現している。この年、東松は「チューインガムとチョコレート」(または「占領」)シリーズにおいて、東京近郊の米軍基地にカメラを向けるようになる。この主題は、日本国内での激しい反発にも拘らず日米安全保障条約が改定されることとなった時代に、まさしく呼応するものであった。[5] 占領は東松が取り組んだ様々な主題の中で、彼が最も独創的に、そして圧倒的な熱意を持って追い続けたテーマである。この時代の日本の急成長もまた、東松の写真家としての変遷を理解する上で不可欠な要素と言える。国の復活を印象づけるかのように、日本は1964年と1972年にオリンピックを、1970年には万国博覧会を開催。東松は、これらのイベント全てを写真に収めている。 一写真家としての活動と平行して、東松は積極的に写真文化を日本国内に広めた。1959年、東松は奈良原一高、川田喜久治、細江英公、佐藤明、丹野章とともに、のちに影響力を持つこととなるVIVO(ヴィヴォ)を結成。当グループは、その12年前にパリで結成された写真家集団マグナムをモデルとしていた。結成から僅か2年で解散したものの、VIVOは戦後の優れた写真作品が持つ独創的なエネルギーを体現してみせた。1968年、中平卓馬と多木浩二(両人は同人誌『PROVOKE(プロヴォーク)』をのちに創刊)の援助の下、東松は革新的な展覧会「写真100年 日本人による写真表現の歴史」を集成。1840年から1945年までの日本の写真史を初めて体系化した本展は、日本写真家協会の主催により、長きにわたり現代アート発信地の要となっていた東京・池袋西武百貨店で開催された。1974年にジョン・シャーカフスキーと山岸章二の共同キュレーションの下、ニューヨーク近代美術館で開催された「New Japanese Photography ニュー・ジャパニーズ・フォトグラフィ」展の参加写真家の中で、東松は中心的存在であった。本展は翌年、巡回展としてサンフランシスコ近代美術館でも開催。日本人写真家の手による作品の重要性が海外の名だたる美術館に評価されたのは、これが初めてであった。 1960年代から1970年代にかけて東松は東京、特に新宿に栄えた活気溢れる若者文化と、そこで繰り広げられた学生運動に視線を向け、「プロテスト 東京・新宿」シリーズ(1969年)に代表される数々のイメージを生み出した。1960年に初めて長崎を訪れた東松は、1945年の原爆被爆者たちを撮影する。これらの写真は土門拳が撮影した広島の被爆者の写真とともに、翌年、『広島・長崎ドキュメント1961年』として、ロシア語と英語のみで出版された。東松は被爆者だけでなく、止まった腕時計、猛烈な熱により歪んでしまったありふれた瓶、ひび割れて崩れかけた古いカトリック大聖堂の細部など、原爆の痕が刻まれた物にもカメラを向けた。東松はのちに長崎を何度も訪れ、遂には移住することになる。ベトナム戦争が絶頂期を迎えた1969年、東松は沖縄の特異な歴史を考察するようになる。沖縄はベトナムに派遣された米軍部隊の日本における主要な中継基地として引き続きアメリカ施政権下にあった。『アサヒカメラ』の後援の下に初めて沖縄を訪れた東松は、当地での取材を結実させた写真シリーズを同誌より出版。また、この年、写真集『OKINAWA 沖縄 OKINAWA』を写研より出版する。1970年の日米安保条約改定は、東松や日本のより若い世代の関心を集めた。彼らは戦後のアメリカの存在が日本の社会的自由化と目覚ましい経済復興の一翼を担ったことを認識する一方で、米軍の所有する核兵器が自国にもたらす脅威もしっかりと感じていた。1971年、東松は沖縄を二度再訪。翌72年には、沖縄(琉球諸島および大東諸島)の日本国への返還を目撃する。 1975年の『太陽の鉛筆』出版を機に、東松の視線は沖縄に駐留する米軍から沖縄に色濃く残る日本列島創生以前の古代文化へと移っていった。晩年の作品になると、アメリカの存在は徐々に薄れていく。「プラスチックス」シリーズ(1988〜1989年)は、東松が当時住んでいた千葉県の海辺に漂着したプラスチックの残骸を記録したものである。1999年、長崎に移住した東松がまず被写体として選んだのは、長崎市の街で見かけた学童たちだった。また、1962年に同地で撮影した被爆者、山口仙二を再びファインダーに収めた今や年老いたかつての犠牲者が船乗りを楽しむ様子を背後から捉えたポートレートである。東松は、人生最後の2年間を沖縄の地で過ごした。 サンドラ・S・フィリップス 著 十文字素子 訳 注 東松照明「原光景」『日本列島クロニクルー東松照明の50年』東京:東京都写真美術館、1999年、17頁。文中では、自分の世代は日本で「不信の世代」と呼ばれたと東松は述べている。「それは、第二次世界大戦に参戦した国、戦勝国・敗戦国を問わず世界各国の、戦争を知っている子供たちに共通した呼び名であった。」アメリカのビート・ジェネレーション、フランスのヌーベル・ヴァーグとそれぞれ呼ばれた者たちも、いわゆるこの不信の世代であった。同、17頁 東松照明『Shomei Tomatsu:Chewing Gum and Chocolate(東松照明 チューイングガムとチョコレート)』 レオ・ルビンファイン、ジャン・ユンカーマン編、ニューヨーク:アパチュア、2014年、19項 東松照明(再引用)、中原淳行「東松照明ーその50年の軌跡」『日本列島クロニクル』、170頁 東松照明『日本列島クロニクル』、18頁 日本国民の多くが失望を表す中、1960年、改定安保条約は断行された。
  • 土田ヒロミ

    土田ヒロミ

    1939年、福井県南越前町出身

    土田ヒロミ(1939年生まれ)の写真集『俗神』(1976年)は、田んぼを見下ろす林の中で飲み食いしながら休憩する人々を写した一連のショットで始まる。すでにでき上がっている農夫たちの酔いがさらに深まるにつれ、彼らは地面を転げ回り、互いに冗談を言い合い、カメラに向かって身振りをしてみせる。モノクロであるという点においては、当時の日本で主流だったドキュメンタリー写真に属するが、このシリーズに限らず、土田の作品には一貫して遊び心があり、それゆえにそれまでの写真家の作品とは一線を画している。 商業写真家としてスタートした土田は、1964年から1966年まで、横浜市日吉にある東京綜合写真専門学校で学び、著名な評論家の重森弘淹から写真表現における概念的な方法を教わった。「俗神」は、雑誌『カメラ毎日』に何号にも渡って掲載された土田初の大規模シリーズで、のちに書籍化されることとなった。この事業は、1970年代始めから半ばにかけて、土田が日本国内を旅して回り、大都市からの資本流入によっていまだ均質化されていない暮らしを探し求めて撮りためたものだ。中にはかつて歓楽街であった東京の浅草で撮影された写真もあるが、殆どは辺鄙な場所で撮影されたものだ。旅行産業が地方を侵食する様子を捉えた作品群もある。旅行産業が地方を侵食する様子を捉えた作品群もある。旅行産業は、〈都市〉と〈地方〉の差異をなくす一つの要因と言えるだろう。しかし、土田が注目したのは風景というよりは、その土地の文化や人々だった。たとえば、青森県で撮影された写真のうち二点には、地域に昔から伝わる衣装に身を包んだ女性たちと、歌を披露する歌手が捉えられている。どちらの写真も人物の服装や表情に重点を置いており、特に歌い手の顔には抑えられた中にも強い感情がこもっているのが見てとれる。 「俗神」シリーズでは、間もなく都会風の生活様式に飲み込まれていく地方の人々が取り上げられているが、次の大規模シリーズを書籍化した『砂を数える』(1990年)で、土田は大都市の住民にカメラを向けている。この写真集は、点在する人のスナップショットに始まるが、フレームに写り込む人物はどんどん増えていき、1989年の昭和天皇崩御の際に皇居前に集まった群衆の写真に終わる。何千人もの男女がひしめき合い、ここで写真集のタイトルの皮肉めいた意味合いが明らかになる。人々は砂粒のごとく、とてつもなく大きな総体の微小な部分でしかないというわけだ。土田はまた、歴史を視野に入れて都市を捉えてきた。広島とベルリンで、それぞれ1973年、1983年から作品を制作しており、多くの場合、何年も経ってから以前とまったく同じ場所に戻り、改めて撮影するという方法を取っている。 1990年代以降は、「砂を数える」シリーズをカラー写真で展開し、日本国内の人気観光スポットで群衆を撮影した。これらの比較的新しい作品で、土田はデジタル加工という新技術を使い、こしゃくにもどの写真にも自分自身の姿を加えている。そのため、写真には『ウォーリーをさがせ!』的なおどけた雰囲気が漂っており、それは土田が作品中に写っている人々と自分は何ら変わりない存在であると言っているかのようだ。土田はほかの作品群でもデジタル技術を実験的に使っている。1988年からほぼ毎日自分の写真を撮っているが、土田の活動は、昨今の大流行にかなり先駆けたもので、2008年にはこれらの写真からコマ撮りビデオ(タイムラプス)を制作している。このようにして、土田はユーモアのセンスと遊び心を盛り込んで、社会現象を観察し続けているのだ。 ダニエル・アビー 著 松浦直美 訳

インタビュー

エッセイ

研究資料

日本の写真—1950年代から1980年代までの批評論集

第二次世界大戦後の日本が消費者主導の経済へと変貌を遂げる中、国の主要な新聞社各社は大衆市場向けの写真誌の制作を始めた。当時、日本土着の特性を持ち、独創的で高い表現力を持つ新しいスタイルの写真が台頭し始めたが、まだ作品自体が芸術表現であることへの世間一般の認知度は低く、このような写真誌がその普及に重要な役割を果たした。数ある写真誌の中でも特に重要な存在だったのは、毎日新聞社の月刊誌『カメラ毎日』と朝日新聞社 (現在の朝日新聞出版) が刊行した『アサヒカメラ』であった。両誌は、その頃成熟期を迎えつつあった東松照明、森山大道、細江英公らに代表される世代の日本写真家の目新しく個性的な作品だけでなく、欧米の写真作品やそれらに対する批評文も紹介した。多くのページはアマチュア写真家の作品にも充てられ、家族写真を上手に撮る秘訣や、海外の大規模な写真展や展覧会図録に関する真摯な批評や論考なども合わせて掲載した。またこの頃、両誌より小規模で私的な写真誌も出回るようになる。石内都と楢橋朝子が手がけた『Main(マン)』は、彼女たちの作品を通して試行錯誤を重ねる女性写真家としての体験を綴っている。ここに厳選した1950年代後半から1980年代にかけて書かれた記事やエッセイはいずれも、日本の写真文化とその海外における写真界との繋がりを考察する現代の言説を例証するものである。