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森山大道

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森山大道が語る写真のエッセンス

写真家、森山大道が写真のエッセンスについて、ポップ・アーティストのアンディ・ウォーホルに対する評価について、自分を取り巻く外界を捉えるプロセスについて述べる。自作《三沢の犬》(1971年)をどのように撮影したか、またその野良犬のイメージが自身のキャリアの象徴になったいきさつを振り返る。 映像は一部Tate Digital提供、©Tate 2016

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森山大道が語る写真のエッセンス

森山 大道
三月2016

森山大道:今自分はね、写真で何をやりたいと思ってるのか、写真をどう考えてるのか、それから外界をどう見ようとしているのか?僕が写真の本質だと思ってるのは、コピーですよね、複写性というか。ウォーホルは色んな人の作品を、作品というか、色んなシーンの写真をコピーして、自分の作品にもしているし。それからコピーのコピーをまたつくるような、そういうコンセプトを彼は持ってると思うんです。それは僕が考える写真の本質に極めて近い。つまり写真というのはいわゆる、アーティスティックな作品を作るということではなく、写真というのはもともと複写、複製のものなんだと、という風に僕は思ってたんで、そういう僕の気持ちに、ウォーホルが色々やってることがそのままフィットしたんですよね、ええ。

街で街をスナップする、車を撮る、何を撮る、人を撮る、テレビを撮る、ポスターを撮る、映画のスクリーンを撮る、全部一緒っていう風に思ってるんで、うん。特に、テレビのブラウン管を撮ることにそんなに意味があるわけではなく、僕にとっては視点の一つですから。写真っていうのは基本的には通俗的なもの、世俗的なもの、そういうものを撮ることだと僕は思ってるんで。僕は僕の興味に従って、僕の肉体的な反応も含めて、それから記憶とかね、様々な要素を含めて、撮る時は撮ってますよね。で、むしろその一枚の僕が撮った写真を、もしかして意味として捉えるのは、それは観る人ですよね。僕は提供してるっていうの?自分の精神と肉体によってスナップしたものをね、もう限りなく撮る。

なんでも見て、ことごとく撮ってやろうという気持ちでやります。もちろんなんでも見てるわけじゃないし、ことごとく撮ってるわけじゃないんだけども、気持ちはそういう気持ちで撮るんですよね。で、その時にある自分のコンセプトみたいなことで分けていかない、考えていかない。

『アサヒカメラ』の「何かへの旅」というね、連載で三沢に行った時に、泊まってたホテルからさあ写真撮りに行こうと、持って一歩出たら、奴がいて、ふらふらっといて。パパッと撮った。もうそれだけ。だから自分でもブロウアップしてプリントにした時にびっくりしたけどね、ちょっとね。おおっと、こんな顔してるんだ、この犬って。うわ、こんな、なんていうのかな、挑発的な、挑戦的な顔してんのかとびっくりしたね、うん。でも最近はね、森山はあの犬に飼われてるって言われてるよ、冗談でね。つまり、あのプリントは圧倒的に売れるからさ、そういう意味ですよ。

基本的には毎日撮りたいと思ってるし、必ず撮ってますね、なんかの時に。ちょっとコンビニに行く時でも僕持っていきますから。せっかくね、カメラを持つ人生になったんだから、やっぱり僕の生きてる時間だけはね、極力写して、留めておきたいと、っていうのが僕の今の基本的な考えね。自分が持ってる時間だけ、とにかくギリギリまで写真撮りたいと、もうそれだけ。

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