叙情的で表現主義的な感性で写真界を牽引する存在となった森山大道(1938年生まれ)は、戦後の日本の日常における感情の変移をひたむきに撮り続けた写真家である。森山は都内で育ち、終戦後の、日本が〈解放者〉による占領と政治的圧力に屈しつつも経済大国として成長していくさまを体験して成長した世代である。これらを含む様々な出来事に触発され、森山は自身の創作に急進的な手法を用いるようになる。「混沌とした日々の生活が、日本そのものだと思う」と森山は言う。「僕が思うに、こんな芝居がかった状況は、単にメタファーなだけでなく我々の現実でもあるんだ。」[1] 先達の写真家・細江英公が小説家・三島由紀夫の大胆で性的な演出を施した肖像写真の撮影を行っていた頃、森山は細江のアシスタントを務めていた。森山はその後、ニューヨークの疎外感に溢れた社会を挑発的に、そして生々しく表現したウィリアム・クラインとアンディ・ウォーホルの写真作品に出会う。当時逗子に住んでいた森山は、近くにあった米軍基地を目にし、その場所の生命力と肉体的放蕩に感化された。逗子にはベトナム戦争に派遣された米兵が溢れており、ジャズ音楽、安酒場、そこにたむろする種々雑多な常連たち、米兵のあり余った活力といった、その地ならではの文化に惹かれた。非政治的なスタンスを取り続けた森山は、その時代が宿していた特有の複雑さや闇の持つ曖昧さといったものの中に主題を見出したのである。
森山は1960年代半ばより、定評の高かった『カメラ毎日』を始め、アマチュア写真家向けに出版された複数のカメラ雑誌に定期的に寄稿するようになる。森山が関わったこれらの出版物は、報道写真寄りの作品ではなく詩的な作品を好むものであった。森山が大衆娯楽や寺山修司による実験劇場などを題材にして撮った写真は、彼の初写真集『にっぽん劇場写真帖』(1968年)に収録されている。ジャック・ケルアックの崇拝者だった森山は彼の作品『路上(オン・ザ・ロード)』に触発され、日本中をヒッチハイクしたり、同乗させてくれるドライバーを探して、出来たばかりの高速道路を昼となく夜となく走り回り、人けのないカフェや車窓からの景色を写真に切り取った。こうした作品は1968年以降『カメラ毎日』に連載されるが、森山はその後何十年もの間、日本各地や街中をたゆむことなく動き続けた。友人・中平卓馬の紹介で、森山は実験的な写真同人誌『プロヴォーク』(1968〜1969年)に参加。政治色の強いこの雑誌関係者に携わる間も、彼が非政治的なスタンスを崩すことはなかった。ウォーホルを彷彿とさせるシリーズ「アクシデント 」(1969年)は、トリミングや粗粒子の技法を思い切って取り入れたり、交通安全のポスターを元にした写真を複写し、それを再構成するなどして制作された作品は森山の実験的な試みの一つである。1974年、森山は1971年のニューヨーク滞在中に撮った写真を複写・製本する。彼が愛したもう一人の小説家ジェイムズ・ボールドウィンへのオマージュを込め、森山はこのゼロックスコピー写真で構成された写真集を『《もう一つの国》ニューヨーク』と題した。
森山の作品は、1970年の日米安全保障条約改定に対する抗議運動、その後の日米間の政治的対立の緩和、消費者主義の拡大といった、当時の深刻な政治的分裂に照らして見ることで真の意味を理解することができる。1970年代は森山にとって多くの作品を生み出す時代だったが、それと同時に70年代半ばに差しかかる頃には、彼は精神的に不安定になっていた。1972年、森山は二冊の意義深い写真集『狩人』と『写真よさようなら』を出版し、個人写真誌『記録』も刊行する。『狩人』には、森山作品の中で最も広く知られた迫力あるハイコントラスト写真が収録されている。『写真よさようなら』は、美しいまでに実験的な一冊で、彼のウォーホルへの尽きることのない関心が伺える—ブレが激しくトリミングも大胆な写真群は、何も写っていないテレビ画面や空中に浮かぶヘリコプターなどを被写体としているが、その多くは何を捉えているのか殆ど判別がつかない。これらの写真は悲劇的で虚無的な空気を放つ。そんなムードにふさわしく、本書の序文には森山と友人の中平との対談が収録されている。対談の直後、中平は深刻なアルコール中毒症に陥ることとなる。
森山がこの張り詰めた状態から抜け出すのには数年かかった。彼は地方に足繁く通うようになり、まだ産業化の波が押し寄せていない日本の片田舎を写した作品をまとめた「遠野物語」(1974年制作、1976年出版)を出版。その写真群は、どこか奇妙で見る者を狼狽させる、現実逃避な様相を呈するものではなかった。その年、海外からの森山への関心も高まりを見せた。1974年、森山は、ジョン・シャーカフスキーと山岸章二が共同キュレーターを務め、ニューヨーク近代美術館で行われた「New Japanese Photography(ニュー・ジャパニーズ・フォトグラフィー)」展に参加。当展覧会は翌年、サンフランシスコ近代美術館でも巡回展として開催された。森山のこうした成功は、写真が日本における一つの特有な芸術表現として認識されたと時を同じくした。彼の功績は、同年、東京国立近代美術館で開催された「15人の写真家」展でも大きく取り上げられることとなる。
森山の実験的な姿勢は、今日に至っても崩れることはない。また、拡大版の書籍形式で古い作品と近年の作品を組み合わせるなどして、自身が以前に手がけたプロジェクトを再考している。長きにわたる活動休止の期間を経て制作された『光と影』(1982年)に収録された写真作品は、新たな、目がくらむほどの鮮明さに溢れている。1990年に出版した『サン・ルゥへの手紙』で森山は、1827年にフランスの発明家ニセフォール・ニエプスが作った世界初の写真画像が、彼にとっていかに大きな意味を持ったかを語っている—ニエプスの写真はキメが粗く混沌としているが、中庭の一方からもう一方へと移り行く太陽の軌跡を実によく捉えている。[2] 近年、森山は、70年代にも稀に手がけていたカラー写真の制作を再開。特注のカメラで撮られた新たなカラー写真は、過去の粗野な作品と対照を成す率直さを持ち、正常感すらも備えている。
サンドラ・S・フィリップス 著
十文字素子 訳
森山大道 Stray Dog
注