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写真家

東松照明

日本

1930年、愛知県名古屋市出身
2012年、沖縄県那覇市没

Black and white portrait of Shomei Tomatsu
東松照明

東松照明(1930〜2012年)は、絶望と感嘆、怒りと喜びなど、両極にあるものを危うい均衡で捉え、第二次世界大戦後の自国に根深く存在した衝突、葛藤を視覚化した写真家である。東松の作り出す鮮明でいて優雅な作品は必ずしも多くを語るものではなく、むしろ刹那的で、平凡な瞬間の記録と言える。彼は戦後の日本が歩んだ道や日本とアメリカの不明瞭な関係に目を向けた最初の写真家で、この主題に強い信念を持って取り組んだ。自国の米国化を問題視し続けた東松の作品からその傾向が薄らぎ始めたのは、晩年になってからのことである。

名古屋に生まれた東松が終戦を迎えたのは彼が15歳のときだった。「被害体験しかもたないのが、戦争を知っている子供たちの特徴である」[1]と東松は語った。温情ある恩師の支えと岩波書店が一般読者向けに小規模に出版していた美しい写真集の数々が、東松を写真の世界へと導いた。彼は1954年から1956年までの短期間、岩波写真文庫に勤務している。自分一人で作業の全行程を進められる写真制作は東松の性に合っており、手がけたプロジェクトの殆どは彼が自発的に行ったものであった。写真家になって間もない頃の東松の作品は、終戦後に自国がいかなる変化を遂げたかを肉薄している。彼はのちにこう述べている、「敗戦を境として明暗がはっきり見えてくる中で、価値が180度転換する。(中略)その時代に、最も多感な年齢を過ごしたということは、一生そのフィルターを通してすべてが見えてしまうといえるくらいの強烈な時代体験であってね。」[2] 東松の最も初期のシリーズ「傷痍軍人・名古屋」(1952年)と「やきものの町―瀬戸」(1954年)は、戦後の貧困と、戦前の職人文化が終戦後も粘り強く生き残った様を記録したものである。のちに制作したシリーズ「家 熊本・天草下島」(1959年)において東松は、日本の伝統の持つ美しさや豊かさを認識する一方で、農村地域の人々が強いられた持続困難な生活にも目を注いだ。

写真家としてのキャリアがまだ浅いうちに、東松は自分の作品が特定の主題を表現しているだけでなく、見る人に隠喩的なレベルで共感しうることに気づく。彼の作品は真実の報道ではなく〈印象だけの写真〉に過ぎないという批判に対し、東松は「(自分は)事実尊重を捨てたおぼえはなく」、ただ「写真の動脈硬化を防ぐためには〈報道写真〉にまつわる悪霊を払いのけ」 [3]る必要があったのだと語っている。シャベルを手にした労働者の脚に泥が飛び散った様を背後から撮った写真は、日本が陥っていた状況、特に1950年代から1960年代にかけて農村の住民たちが直面していた現実を正直に切り取っているが、これは同時に、日本の再生とこの国が本質的に備えていた肥沃さの表象でもある。東松はあくまで報道写真とは違った角度から自国の抱える問題に対峙した。編集者・山岸章二が指揮を執るようになってから主に日本の新しい写真作品を世に送り出すようになった『カメラ毎日』を筆頭に、複数のアマチュア向け写真誌が幸運にも東松のこうした姿勢を後押ししたのである。

1959年までに東松は、主題を見出し、のちにまた同じ主題へと回帰する、または過去を物語る主題を現在の中に見出すという行為を繰り返すようになっていた。このアプローチを代表するのが「敗戦の記憶 愛知・豊川海軍工廠跡」(1959年)に見られるような、日本の終戦後の状況と、その近代化の中でも消えることなく在り続けた過去を写し取った作品である。「日本が不死鳥のように蘇ったのは廃墟からである」と東松は言う。「この地点からしか出直すことができなかった」[4]のだと。幼少時を過ごした家の解体に端を発したシリーズ「水害と日本人」(1959年)は、水害の破壊的な力だけでなく、その再生の力も表現している。この年、東松は「チューインガムとチョコレート」(または「占領」)シリーズにおいて、東京近郊の米軍基地にカメラを向けるようになる。この主題は、日本国内での激しい反発にも拘らず日米安全保障条約が改定されることとなった時代に、まさしく呼応するものであった。[5] 占領は東松が取り組んだ様々な主題の中で、彼が最も独創的に、そして圧倒的な熱意を持って追い続けたテーマである。この時代の日本の急成長もまた、東松の写真家としての変遷を理解する上で不可欠な要素と言える。国の復活を印象づけるかのように、日本は1964年と1972年にオリンピックを、1970年には万国博覧会を開催。東松は、これらのイベント全てを写真に収めている。

一写真家としての活動と平行して、東松は積極的に写真文化を日本国内に広めた。1959年、東松は奈良原一高、川田喜久治、細江英公、佐藤明、丹野章とともに、のちに影響力を持つこととなるVIVO(ヴィヴォ)を結成。当グループは、その12年前にパリで結成された写真家集団マグナムをモデルとしていた。結成から僅か2年で解散したものの、VIVOは戦後の優れた写真作品が持つ独創的なエネルギーを体現してみせた。1968年、中平卓馬と多木浩二(両人は同人誌『PROVOKE(プロヴォーク)』をのちに創刊)の援助の下、東松は革新的な展覧会「写真100年 日本人による写真表現の歴史」を集成。1840年から1945年までの日本の写真史を初めて体系化した本展は、日本写真家協会の主催により、長きにわたり現代アート発信地の要となっていた東京・池袋西武百貨店で開催された。1974年にジョン・シャーカフスキーと山岸章二の共同キュレーションの下、ニューヨーク近代美術館で開催された「New Japanese Photography ニュー・ジャパニーズ・フォトグラフィ」展の参加写真家の中で、東松は中心的存在であった。本展は翌年、巡回展としてサンフランシスコ近代美術館でも開催。日本人写真家の手による作品の重要性が海外の名だたる美術館に評価されたのは、これが初めてであった。

1960年代から1970年代にかけて東松は東京、特に新宿に栄えた活気溢れる若者文化と、そこで繰り広げられた学生運動に視線を向け、「プロテスト 東京・新宿」シリーズ(1969年)に代表される数々のイメージを生み出した。1960年に初めて長崎を訪れた東松は、1945年の原爆被爆者たちを撮影する。これらの写真は土門拳が撮影した広島の被爆者の写真とともに、翌年、『広島・長崎ドキュメント1961年』として、ロシア語と英語のみで出版された。東松は被爆者だけでなく、止まった腕時計猛烈な熱により歪んでしまったありふれた瓶、ひび割れて崩れかけた古いカトリック大聖堂の細部など、原爆の痕が刻まれた物にもカメラを向けた。東松はのちに長崎を何度も訪れ、遂には移住することになる。ベトナム戦争が絶頂期を迎えた1969年、東松は沖縄の特異な歴史を考察するようになる。沖縄はベトナムに派遣された米軍部隊の日本における主要な中継基地として引き続きアメリカ施政権下にあった。『アサヒカメラ』の後援の下に初めて沖縄を訪れた東松は、当地での取材を結実させた写真シリーズを同誌より出版。また、この年、写真集『OKINAWA 沖縄 OKINAWA』を写研より出版する。1970年の日米安保条約改定は、東松や日本のより若い世代の関心を集めた。彼らは戦後のアメリカの存在が日本の社会的自由化と目覚ましい経済復興の一翼を担ったことを認識する一方で、米軍の所有する核兵器が自国にもたらす脅威もしっかりと感じていた。1971年、東松は沖縄を二度再訪。翌72年には、沖縄(琉球諸島および大東諸島)の日本国への返還を目撃する。

1975年の『太陽の鉛筆』出版を機に、東松の視線は沖縄に駐留する米軍から沖縄に色濃く残る日本列島創生以前の古代文化へと移っていった。晩年の作品になると、アメリカの存在は徐々に薄れていく。「プラスチックス」シリーズ(1988〜1989年)は、東松が当時住んでいた千葉県の海辺に漂着したプラスチックの残骸を記録したものである。1999年、長崎に移住した東松がまず被写体として選んだのは、長崎市の街で見かけた学童たちだった。また、1962年に同地で撮影した被爆者、山口仙二を再びファインダーに収めた今や年老いたかつての犠牲者が船乗りを楽しむ様子を背後から捉えたポートレートである。東松は、人生最後の2年間を沖縄の地で過ごした。

サンドラ・S・フィリップス 著

十文字素子 訳

  1. 東松照明「原光景」『日本列島クロニクルー東松照明の50年』東京:東京都写真美術館、1999年、17頁。文中では、自分の世代は日本で「不信の世代」と呼ばれたと東松は述べている。「それは、第二次世界大戦に参戦した国、戦勝国・敗戦国を問わず世界各国の、戦争を知っている子供たちに共通した呼び名であった。」アメリカのビート・ジェネレーション、フランスのヌーベル・ヴァーグとそれぞれ呼ばれた者たちも、いわゆるこの不信の世代であった。同、17頁
  2. 東松照明『Shomei Tomatsu:Chewing Gum and Chocolate(東松照明 チューイングガムとチョコレート)』 レオ・ルビンファイン、ジャン・ユンカーマン編、ニューヨーク:アパチュア、2014年、19項
  3. 東松照明(再引用)、中原淳行「東松照明ーその50年の軌跡」『日本列島クロニクル』、170頁
  4. 東松照明『日本列島クロニクル』、18頁
  5. 日本国民の多くが失望を表す中、1960年、改定安保条約は断行された。
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東松照明 参考文献

インタビュー

所蔵品 東松照明

エッセイとアーティストトーク

  • 東京国立近代美術館で開催された二つの展覧会、「現代写真の10人」(1966年7月15日-8月21日)と、「15人の写真家」(1974年7月26日-9月8日)は、いずれも第二次大戦後の日本の写真の展開において重要な役割を果たした写真家たちの近作によって構成されたグループ展だった。[1] 二つの展覧会には、戦後に登場した第一世代として写真表現に革新をもたらしたVIVO(ヴィヴォ)のメンバーである東松照明、奈良原一高、細江英公、佐藤明や、1960年代末から1970年代初頭にかけ、その活動が大きなインパクトを残したことで知られるPROVOKE(プロヴォーク)のメンバー、中平卓馬、森山大道、高梨豊らが名を連ねていた。「現代写真の10人」に出品されていた作品の中で最も年代の早いものは1962年である。「15人の写真家」には当時、雑誌に連載中の作品も含まれていた。つまり二つの展覧会をあわせれば、そこには1960年代初頭から1970年代半ばまで、15年ほどの日本の写真界の動向が視野に入ってくることになる。そしてその時代とは、今日、日本の戦後写真史において最も劇的だった時代の一つと考えられている。 二つの展覧会が開催された背景をまず整理しておこう。1952年に東京・京橋に開館した国立近代美術館は、その翌年に最初の写真展「現代の写真-日本とアメリカ」を開催する。これは戦後の日本写真の秀作により構成された日本側の作品と、ニューヨーク近代美術館のコレクションから選ばれたアメリカの写真の、二つのパートにより構成された展覧会だった。[2] これ以降、1966年の「現代写真の10人」までの間には、6つの写真展が開催された。[3] そのいくつかは日本の写真をとりあげるものだったが、そこで紹介されたのは一部の例外を除いて戦後発表された作品であり、いずれの展覧会においても、同時代の動向を紹介するという観点から作品が選ばれていた。 当時の国立近代美術館には、写真を専門とするキュレーターはいなかった。そのため開館以来、1974年の「15人の写真家」まで、写真展の開催にあたっては外部の専門家から構成された選考委員会が作品の選定にあたった。選考委員として招聘された専門家たちは、いずれも当時の日本を代表する写真評論家、写真誌の編集者などである。彼らは毎月のように写真雑誌の誌面などを通じ、同時代の写真についての論評を行い、その動向に少なからず影響を持つ存在だった。同時代の写真を幅広く視野に収めつつ、その動向と併走していた彼らの協議によって構成された展覧会を、ここではおおむね当時の状況がバランスよく反映された、日本写真界の「セルフイメージ」と考えてみたい。どの展覧会においても、特定のテーマをかかげることなく、同時代の動向を分析し、そこから代表的なものを紹介するという姿勢がとられていたからである。その典型は1960、1961、1963年の三度にわたって開催された「現代写真展」である。これらは年次秀作展と呼ばれ、前年に雑誌や展覧会などで発表された写真から選抜された作品により構成された展覧会であり、いわば断面として、直近の写真界の成果を紹介するものだった。[4]「現代写真展」が3回で休止したあとをうけ、三年後、形式を改めて開催されたのが、1966年の「現代写真の10人」だった。この展覧会の選考委員の一人、金丸重嶺がカタログ(図1)に寄稿したテキストによれば、この展覧会に選ばれた写真家たちは、「観念」に始まる「主観的傾向」と「対象を洞察」することから始まる「客観性を重視する傾向」という、二つのカテゴリーに分けられる。[5] このコンセプトは、1950年代末から1960年代初頭において注目された「主観主義写真」[6]の流れが提起した問題を踏まえていた。つまり「現代写真展」が、芸術的表現を志向するものから報道、広告、科学写真まで、あらゆるジャンルから網羅的に、その年ごとの秀作を選ぶという形式だったのに対し、「現代写真の10人」では、明確なテーマこそ掲げられていないものの、過去数年間の動向を分析し、そこから注目すべき傾向を抽出し、それを整理した形で示すという構成が試みられていたのだ。[7] 「現代写真の10人」では、より新しい世代の写真家たちに焦点が当てられていた。戦前からのキャリアを持つベテランも含め、幅広い年齢層の写真家が選抜されていた「現代写真展」とは異なり、「現代写真の10人」の出品作家は、すべて戦後に出発した写真家であり、最も年長の中村由信でも41歳、最年少の篠山紀信は25歳と、比較的若い写真家たちが選ばれていたのである。世代の限定は「15人の写真家」にも共通している。最年長は40 歳の深瀬昌久、最年少は田村シゲルで27歳だった。彼らはすでに一定の評価を得ていたとはいえ、まだ十分に若い写真家であったといってよい。
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    National Endowment for the Arts

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