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エッセイ

アーティストトーク
パーソナル・ランドスケープ

ボストン美術館にて開催されたトークより、2015年4月22日

まず、東日本大震災に際して温かい手を差し伸べてくれた、アメリカ合衆国の皆さんに「ありがとう」を申し上げなければなりません。たとえば在日米軍は、津波の後ただちに東北地方の被災地に入り、日本の自衛隊とともに、人命救助や被災者支援の活動にあたってくれました。そのミッションは「トモダチ作戦」と名付けられていました。私の姉のところには、そのときに配られた、モスグリーンのパウチに入った長期保存のできる兵士用のお弁当が、まだ置いてあるのです。

さて私は、今こちらで行われている「In the Wake: Japanese Photographers Respond to 3-11(震災以後:日本の写真家がとらえた3.11)」という展覧会に「陸前高田」と題する一連の写真を出品しています。これから、写真が撮られた事情についてお話ししますが、そのことによって、この展覧会全体に対する皆様の理解が、より深まるようにと望んでいます。

私の場合は、生まれ育った東北の町(陸前高田市)が津波の被害を受けたので、以来、そこに通って写真を撮っています。私は肉親を失い、実家が流され、懐かしい町も消え、という目にあった人間です。ですから自分でも、出来事のかなり〈内側〉にいる気がしています。

しかし、お役所的に言うなら、私は〈外側〉の人間なのです。東京との行き来の便宜を図るために、市役所に被災者証明書の申請をしに行ったところ「現住所がここにない人間には、被災者証明書は発行できない」と言われました。つまり「ここではなく東京に住んでいるあなたは、法的には、災害によって被害を受けた人物とはみなされない」ということなのです。たしかに地元で実際に、黒い水にのまれながら九死に一生を得たり、住む所が無くなったり、仕事を失ったりしている、れっきとした〈被災者〉を前にすると、自分はそのような人間ではないなと思わざるを得ないのですが。

そんなとき、災厄とは、いったいどれほどの大きさのものなのだろうと考え込んでしまいます。自分はその中にいるのかと思っていたら、誰かから「いいえ、あなたは外にいます」と告げられる。しょうがないと思っていたら、別の人からは「大変でしたね」と同情される。先ほど〈外側/内側〉という言葉を使いましたが、この外と内の境界は、場合によって、相手によって、距離によって、大きく揺れ動くようなのです。

この4年間、私が写真を撮っていて、いちばん悩ましい問題だと思っているのが、この〈外側/内側〉の境界が揺れ動く問題、また、他者からの〈外側/内側〉判断が、自分に対して適用される問題、つまり一言で言えば〈当事者性〉の問題なのです。これは災厄そのものの大変さと較べたら、単に心理的な問題に過ぎないとも言えるのですが、心理的である分、人々の間にさまざまな圧力を生むものでもあり、災厄における表現を考える上でも、重要な問題と言えます。

例えば被災地で、私のそばに知らない写真家が立っているとします。津波で流され土台だけになった家の写真を、私も彼も、同時に撮影しているとします。写真のルックスは、似たようなものになることでしょう。でもその時仮に、私が彼に向かって、その家の土台を指さしながら「ここに私の家があったのです」と告げるとしたら、どうなるでしょうか?なぜ写真を撮っているかの理由の違いが、はっきりするでしょう。私の理由は〈パーソナル〉です。彼の理由は〈パーソナル〉ではありません。私は〈内側〉におり、彼は〈外側〉から来ている。それを知った彼は、気まずくなって、それ以上の撮影を諦めてしまうかも知れません。

単なる事実を伝えた、私の言葉が、相手の行動に影響を与えてしまうのですから、この言葉には確かに、ある種の〈力〉が含まれていると言ってよいと思います。〈内側〉にいること、〈パーソナル〉であることの力です。急いで言い添えておかなければなりませんが、この力は、自分で獲得したものではなく、出来事によって授けられてしまった力であり、私の身に付いている力ではなく、私の周囲を覆うようにしてある力なのです。その点でこの〈力〉は、相対的なものであるにすぎず、決して誇ったり、楽しんで行使したりはできない性質のものです。不用意にその力が発現したりしないようにと、私自身にも、常に慎重さを強いてくるようなものなのです。

見ただけでは分からず、言葉によってしか伝わらない。このような力をめぐる、複雑な心理経験を踏まえながら、私の行っている写真に関して話してみたい。それが今日の私のトークのタイトル「パーソナル・ランドスケープ」の意味するところです。

1. 畠山直哉《気仙町 2011.4.3》「陸前高田」シリーズより2012年 © Naoya Hatakeyama

話が逸れるかも知れませんが、そもそも、〈写真を撮る〉ということ一つについてさえ、この〈外側/内側〉の問題は、常につきまとっていたのではなかったでしょうか。対象に向かってカメラを構え、シャッターを切る度に、私はいつも、対象が属する目の前の現実から、私の体が、無理矢理その〈外側〉に押し出されてしまうように感じます。現実の〈内側〉に留まるには、いっそカメラを捨て、対象に話しかけたり触ったりするしかないのではないか、とさえ思うことがあります。写真に対するこのような疑念は、災厄直接に関係を結ぶものではありませんが、これは写真の展覧会なのですから、やはりどこか心の隅に置いておくべきことだと思われます。

陸前高田は岩手県にあり、福島県にある福島第一原子力発電所からは、直線距離で、北に約180キロほど離れております。今から4年前の2011年3月11日、マグニチュード9.0という、世界観測史上4番目(チリ、アラスカ、スマトラに次ぐ)といわれる大地震が、宮城県の沖で起こり、それから30分ほど後、陸前高田は高さ17メートルとも言われる、歴史上類を見ない大津波に襲われました。

東日本大震災による死者は、全体で1万8000人以上と言われますが、ほとんどが津波による溺死者です。そして死者の約1割近くにのぼる1700人余りが、私の生まれ育った陸前高田の人々です。陸前高田市の人口は当時2万3000人ほどの町でしたが、気仙川という比較的大きな川が流れておりましたので、河口には幅5キロメートルほどの沖積平野が形成されており、その平らな土地に市民の多くが暮らしておりました。そのために、平地の少ない近隣の市町村に比較して、死者率が高かったのです。その中には、まさに3月11日当日に84歳の誕生日を迎えた、私の母も含まれておりました。

母は私の姉と二人で暮らしていましたが、その姉は小学校の教師として勤務中であり、学校が高い場所にあったために、一命を取りとめました。しかし彼女が自分と母と私のために新しく建て直した家は、住み始めて半年後に、波にさらわれて消えたのです。

4年前の自分がどのようであったか、ということを思い返してみると、今の私がこのようにアメリカにおり、少し落ち着いた調子で、皆さんの前で話をしているということが、信じられなくなってきます。あの頃は、今日、明日といったことで精一杯で、4年後、などといった遠い未来を想像することなど、全く不可能だったことが、思い出されてきます。

私は陸前高田で生まれ育ちましたが、大学に入るために家を離れ、26歳で卒業して以来、ずっと東京で暮らしています。私のように、地方で生まれて、大学入学などを機に東京などの大都市に暮らし始め、そのまま何年も経ってしまうというケースは、日本ではとても多く、東京で初対面の人に「お生まれはどちらですか?」と尋ねると、多くの場合は、東京以外の地名を告げられます。これは戦後から続く傾向であり、高度経済成長期である60年代には、主に新しい仕事に就くために、日本全国で毎年100万人もの人が、地方から都市へ移り住んだと言われています。

たとえ東京に住んでいても、1年に数回、たとえば新年と、夏の先祖供養の時に、陸前高田に戻り、母や姉たちの顔や、親戚や友人たちの顔を見たり、小さな町を子供の頃のことを思い出しながら歩いたりするのは、楽しいことでした。

私は写真家ですが、風景や建築を主な対象としており、普段の生活の中では、スナップ写真をあまり撮りません。しかし2000年以降、ちょうど自分が40歳を超えたあたりから、陸前高田に帰る度に、まわりの些細なものごとをなんとなく写真に撮るようになりました。自分が年齢を重ねてくるに従い、周りの大人は自然に年老いてきます。母から電話があると、親戚の誰かが亡くなったとか、近所の誰かが亡くなったとか、そのような報告が目立つようになる。町の人口も次第に減り、若い人も少なくなり、もう自分が子供の頃の活気のある町ではなくなって来ている。

私は、少しノスタルジックな気持ちで、陸前高田の、主に私の生まれた気仙町というところを、なんとなく撮るようになりました。東京に戻って、それをプリントにし、スタジオの壁に貼って眺め、夢想にふける、というのが私の新しい習慣になったのです。時間が経つということの不思議さや残酷さについて、自分や家族のこれからについて、写真を眺めながらあれこれと物思いにふけるのです。そのような写真は、私がふだんアートギャラリーや美術館で発表する作品とは、ずいぶんと性質が異なる〈パーソナル〉なものでしたから、人に見せようなどとは思わず、自分で十分眺めた後は、箱に入れて棚にしまっておくようなものでした。

ところが2011年3月11日以降、箱の中の写真は、まったく違う意味合いを帯びるようになりました。なにげなく写していた写真の中の人々のうち、幾人かは、この世からいなくなってしまいました。祭りで笛を吹いていた少女も、父のいない少女に変わってしまいました。写真に写る橋や建物はすべて津波にさらわれ、祭りの山車もどこかに行ってしまいました。大事な思い出の詰まった写真アルバムすら、津波に流され消えてしまった後では、過去の平和な町の姿は、もう自分の頭の中と、自分が撮ったわずかな写真の中にしか、残っていないということに気がつきました。

2011年秋に、私は東京都写真美術館で「Natural Stories(ナチュラル・ストーリーズ)」という題の展覧会を開催する機会に恵まれました。この企画の準備はその2年ほど前から始まっておりましたが、それ以前に別の美術館で行った展覧会では、都市や建築をテーマにしたため、2011年は「自然」という別のテーマにしました。もちろん、当初の展示作品リストの中に、陸前高田の写真は入っていませんでした。

しかし東日本大震災発生から半年後におこなわれたこの展覧会に、私は急遽、津波後の陸前高田の風景と、津波以前の平和な町の姿を、組み入れたいと思いました。その時の私にとって何よりも切実な問題として、震災と故郷の消失というものがある限り、それを扱わないのは不自然なことに思えたのです。

ところが、美術館員を含めた周囲の幾人かから、私の作品全体における、陸前高田の写真の特殊性に対しての違和感が表明されたのです。抽象性の高い、作品然とした写真展示の流れが、〈パーソナル〉な写真によって切断されてしまうのではないか。まだ震災から半年しか経っていない時点で〈パーソナル〉な写真を見せるのは、生々しすぎるのではないか。それ以前に〈パーソナル〉な写真は〈作品〉と呼べるのか。このような意見は、私を考え込ませずにはいられませんでした。

もちろん、〈パーソナル〉な写真行為を表現の根幹に置いている、優れた写真家がいるのは誰でも知っています。家族や友人や地域社会などをテーマに、自分の人生と芸術の間に線を引かない態度で、撮影を行っている優れた写真家たちがいる…。しかしながら、私自身は、もともとそのようなタイプではありません。どちらかというと私はそのような写真から距離を置いているタイプなのです。

私はスナップ写真をあまり撮らない写真家であるばかりか、人物写真も普段はあまり撮りません。写真家と名乗っているにも拘らず「人物を撮らない」と言うと、他人から奇異なものを見るような目をされることもありますが、美術館に集う皆さんなら、そのような写真家の存在は、歴史的には珍しくもなんともない、ということはご存知でしょう。

私は人物写真が醸し出す、その瞬間その場所における唯一性、あの「たった一度きり」という雰囲気に触れると、たまらなく寂しくなって、泣きたい気持ちになるのです。あまり泣きたくはないので、せめて自分では撮らないようにしようと思っているだけなのです。

ところが、その気持ちに矛盾するかのような写真、腰の曲がった母とか、祭の子供とか、川船をこぐ友人とかの写真を、私は少しずつ撮りだしてしまった。人に見せない〈パーソナル〉な写真だから、たまにはそれを見て一人で泣いたっていいだろう、そう思って撮り続けていた写真を、津波の後に、美術館で公に発表したのです。

仮にもし、「仕事のスタイルの一貫性(コンシステンシー)が崩れることは、アーティストにとって敗北を意味するのだから、普段と違うことは、するべきではない」と頑に信じているアーティストがいたとしたらどうでしょう?あのような大きな出来事の後でさえ、そう信じているアーティストがいたとしたら?私なら、そのような人物の側には、あまり近寄りたくはありません。本来、アーティストが示すべきなのは、自身のアートに対する関わり方ではなく、自身の世界に対する関わり方であったはずです。〈スタイルの一貫性〉など、東日本大震災という大きな出来事に比べたら、取るに足らない問題のように、私には思われます。〈一貫性〉にこだわることでしか維持できない〈アート〉など、必要なものでしょうか。

私の撮っていたスナップ写真は、かつての町の姿を伝えるものとしては、網羅的なものではなく、その意味で町の記録としては完璧ではありません。しかし、町が消失してしまった現在から眺めるなら、あの頃にあった空気のようなものが、確かに感じられる気がします。

展覧会では、津波以前の気仙町の姿を、プリントではなく、あえてスライドショーにして流しました。写真のスライドショーを眺めることは、私たちが過去を思い出す時に似ています。私たちの記憶の中の情景は、浮かんでは消え、長持ちせず、しかも映画のような激しい動きもありません。

反対側の壁には、津波の後のめちゃくちゃになった町の様子を、60点のプリントにして並べました(図2)。陸前高田と東京を往復しながら、その時その時に急いで暗室でプリントしたものを、そのままフレームに入れ、並べたのです。スライドショーは、モニターを壁に埋め込む形で額装し、スポットライトを当て、まるで1枚のプリントが掛かっているように見せました。観客のうち何人かは、額の中の写真がいつしか別のものになっていることに驚いていたようです。

観客の反応はさまざまで、中には「あなたの今までの仕事には全然興味が持てなかったが、あのスライドショーの写真だけはいいと思った」などという意見もありました。世間というものはいつも、私の理解を超えています。

2. 畠山直哉「Natural Storiesナチュラル・ストーリーズ」展より2011年、東京都写真美術館、写真提供:畠山直哉

この展示に目を留めてくれたある出版社のおかげで、その翌年に私は『気仙川』という一冊の本に、この津波の後と前の二種類の写真をまとめることができました。事前に編集者から、私自身によるエッセイを本の中に入れたいという希望があったため、私は当時のことを思い出しながら文を書き始めたのですが、震災の数日後、電車が止まってしまっていたために、オートバイで一人東京から陸前高田に向かった時の記憶があまりにも強く、その細部を綴っていたら、結構な分量になってしまいました。本のデザイナーは機転を利かせて、このエッセイを写真の間に挟み込むようにデザインし、結果的に写真と言葉とが混ざり合うような珍しい構成の本が生まれたのです。

私の書いたエッセイは、このように始まっています。

「何かが起こっている。いまここではない遠いところ、ほら懐かしいあの場所で、何かとてつもないことが起こっている。その様子がいま僕のいるところからでは、よく見えない。誰かが教えてくれるかもしれないと思って、少し期待して待っていたが、誰も何もしてくれなさそうだ。だから僕は自分で、それが見えるところまで動いて行くしかない。でも動きとは時間だ。あの場所にたどり着くまでには時間がかかる。おそらく数日。でも数日後、僕は見えているだろう。そしてすべてを理解しているだろう。僕の町が、家が、家族がどうなったのかを、僕は残らず理解しているだろう。だがそこへたどり着くまでの数日間、僕には何も見えないままだ。僕は何も知らないまま、進まなければならない。」

その後、陸前高田までの道中の様子が、延々と書かれます。そこに挟み込まれた平和な過去の町の写真は、雪の降る中をオートバイで北に走る、私の脳裏に浮かんでいた故郷の姿でもあるのです(図3)。そして、1ページのブランクの後、陸前高田に到着してから私が見た、変わり果てた町の姿だけが続きます。それらのページに、言葉は全く添えられていません(図4)。

この本一冊に関して話すだけでも、何時間も必要な気がしますが、それはさておき、この写真の連作を、どのように考えるべきなのでしょうか? 

一つ確かに言えることは、これは〈プロジェクト〉と呼べるようなものではない、ということでしょう。世間のキュレーター達から、挨拶のように「あなたの今度のプロジェクトはなですか?」と、よく聞かれますが、今の私は、それにうまく返事をすることができません。そのような〈プロ・ジェクト=前に投げる〉ものとして、今ご覧に入れているような写真を着想したり計画したりすることは、人には不可能なのです。

3. 畠山直哉《今泉》2004年 © Naoya Hatakeyama

この写真は、予想もしなかったような出来事、しかも楽しくはない出来事に、私自身が巻き込まれてしまったことの結果、生まれているものです。そのせいか、世間のキュレーター達からは、「あなたの陸前高田の写真に関しては、何もコメントすることができない」と、いう風に言われます。確かに、今お目にかけているような私の写真に対して、作品(プロジェクト)に対する評価の際によく用いられるような語彙、たとえば「面白い/つまらない」とか「良い/悪い」とか「美しい/美しくない」などという語彙を使って、何かコメントするのは、どこか的外れな感じがします、というより、どこか非道徳的な感じがするかも知れません。

多数の死者、流され消えた町、残された人々の悲しみ、苦労、心配。そのような事実を背景にした写真に対しては、「面白い」とか「つまらない」とかいった、普段作品の評価の際に気軽に使っている言葉が、使いにくくなってしまいます。先ほど、家の土台の写真を撮る私と別の写真家の喩えを出しましたが、それと似たようなことが、写真を〈眺める〉時にも起こっているのでしょう。写真に対して簡単に価値評価を下すことを禁じるような、妙な力が、この写真の周囲には生じているはずです。それが私の意図ではないにしても、鑑賞者は、その力に対して、どこか居心地の悪さを感じているのではないでしょうか。この力を分析することは、容易ではないと思います。

逆に、いわゆる〈プロジェクト〉や〈芸術作品〉と呼ばれる写真が、見る側にとって、このような居心地の悪い沈黙とは逆の冗舌なほどの豊富な言葉を誘発するのは、なぜなのだろうか?といった、以前は考えたことのないような疑問も、湧いてきます。

4. 畠山直哉《今泉》 2011年 © Naoya Hatakeyama

正直に言えば、震災以来、私は自分の写真が〈芸術作品〉であるかどうか、などという問いを忘れて撮影をしているような気がします。たとえ観る者に居心地の悪さを感じさせても、沈黙しか生まなくても、評価できないと言われても、それはそれで仕方ない、という気持ちで撮影をしているような気がするのです。

私が陸前高田で写真を撮っているのは、新聞や雑誌などのメディアのためではありません。誰かに依頼されて撮影をしているわけでもないし、アートギャラリーや美術館のためでもない。津波の被災者に、このような写真を見せても意味がないでしょう。では自分のために撮っているのか、というとそれも違います。

少し奇妙に聞こえるかも知れませんが、私は津波の直後から今に至るまで、誰かから何かを要求されているような気がしています。その〈要求〉は、パーソナルなところ、つまり〈私〉の内部からではなく、逆に外部からやってくるようなのです。私は確かに、その〈要求〉に応答するような気持ちで写真を撮っており、これはまさに、言葉の正確な意味での〈応答=response〉ではないだろうか、と思うのです。

応答している相手は、決して津波そのものではありません。津波に対して〈応答〉するのは、不可能だしナンセンスです。応答の相手は、声を持ち、私に呼びかけてくる〈誰か〉です。それは亡くなってしまった母や知り合い、愛すべき友人やその家族、尊敬する恩師、あるいは同級生かも知れません。〈誰か〉が誰なのかは、うまく説明できません。でもその〈誰か〉が、愛と尊敬に満ちた領域にいるのは確かだと、私には感じられるのです。

なにやら神学的な匂いのする、大げさなことを言ってしまったかも知れません。しかし、この展覧会のサブタイトルに「respond(応答する)」という言葉が与えられているのを見て、安心し、勇気づけられました。何故ならこの言葉は、ここ4年間、私にとって、〈プロジェクト〉という言葉と比べて、より深い真実を伝える言葉であったからです。

私の心に湧いた〈応答〉という実感は、パーソナルに見えるものごとが、社会的なものごとに変化する可能性を示唆するものかも知れません。だからこそ、〈責任(responsibility)〉という言葉は、〈応答の可能性(possibility of response)〉から派生しているのではないか、とも想像します。

ここでさらに、このような〈応答〉するにまつわる行為全体を、新たに解釈し直し、〈プロジェクト〉として組織すること、つまり〈芸術〉の方法に組み入れることは、果たして人間に可能なのか、不可能なのか、という疑問が湧いて参ります。もしそれが可能だとしたら、それまで「何もコメントできない」と、口をつぐんでいたキュレーター達がもっと自由に何かを語り始めるようになるかも知れません。しかしこの問題に関して、これ以上深く考えることは、別の機会に回さなければならないでしょう。

〈ランドスケープ〉に関して、最近の陸前高田の風景をお見せしながら、もっとたくさんお話しをするべきだったかも知れません。

例えば、先ほどまでの話に続けるようにして、「この虹の麓に、私の家がありました」と言った時に生じる、「パーソナル・ランドスケープ」に典型的な、なんとも言えない雰囲気の分析があります(図5)。私のこの言葉によって、写真の持つ雰囲気は間違いなく変わるでしょう。では、ここに写る風景の価値や意義は、視覚的ではなく言語的に測られるのでしょうか? それとも、多くのアーティストが美術館で行っているように、私も言葉の力を借りずして「パーソナル・ランドスケープ」を見せることができるでしょうか?

5. 畠山直哉《気仙町 2012.3.24》「陸前高田」シリーズより2012年 © Naoya Hatakeyama

それから例えば、実際の大規模な土木計画と地域住民の時間との乖離の問題や将来の想像力のため、災害の遺構をいかに保存するかといった問題。7万本のうち1本だけ残った姿のよい松の木が、なぜ特別に、1億5千万円もかけて記念碑に改造されたのか?

これは4月に、東京のニコンサロンで行われていた、私の新しい展覧会の模様です(図6)。壁には63点の風景写真が展示してあります。そのうちのいくつかは、いまここボストンで展示されているものと同じです。私は、津波があってから、ほぼ毎月のように東京から陸前高田に出かけ、主に風景写真を撮っています。最初は被害のひどさ、思い出の場所がめちゃくちゃになったことの悔しさ哀しさ、といったものが、シャッターを切る理由になっていました。この理由は確かに〈パーソナル〉なものだったと言えます。

6. 畠山直哉「陸前高田 2011〜2014」展より2015年、東京・ニコンサロン、写真提供:畠山直哉

最初の方で、陸前高田の中心は、川が作った平野部にあったということをお話ししました。いくつかの写真を見ると、確かに川と変わらないくらいの高さの地面に、かつての町があったことが分かると思います。私の実家も含めて、市全体の家屋の約半数が、このような低い土地に建っていたのです。町の建物が消えてなくなるまで、こんなに低い土地に自分たちが暮らしていることを、私を含め誰も疑問に感じていなかったことを思い出すと、胸が詰まりそうになります。

津波の時に、辛うじて避難できた人々。家を失って、今学校の校庭に建つ仮設住宅で暮らしているような人々も、元は殆どがこの平地に暮らしていたわけですが、その人々は、またここに戻るのでしょうか?いいえ、多くの人々は、もう低い土地には住みたくないと思っています。どうせ全部失ってしまったのですから、これからは新しくても安心できる場所で、再出発したいと思っています。国や県や市も、将来再び同じような悲劇が繰り返されないようにと、新しい安全な町づくりに積極的です。

その街づくりとは具体的には、土木工事によって、高い場所に新しく住宅地を造成するということです。簡単に言えば、周りの山を切って平地を造ることと、そこから出た土を低い土地に盛って嵩上げをするということです。山が多い私の地方では、そうすることでしか高さのある平らな土地を手に入れることができないのです。この工事に加えて、将来また来るかもしれない大きな津波に備えての、高さ12.5メートルという大きな防潮堤の建設も、まもなく始まる予定です。

土木工事の規模が巨大であることは、その周囲に影響を与えます。建設費の高騰、人材の不足などによって、個人の住宅建設に、余計なお金や時間がかかるようになってきています。津波の年から数えて5年も6年もかかる造成工事の完了を、人はじっと待っていますが、その間に人は5、6歳、年を取ってしまいます。それが高齢者なら、家を建てることを躊躇するようにもなります。私も嵩上げ地に、元の土地から減歩された面積を換地されることにはなっていますが、それをどうしたらいいのか、まだ決めかねております。

陸前高田の風景の質は、変わりつつある。それを2013年の暮れあたりから、私は強く感じるようになりました。廃墟が整理され、元の街区が埋め立てられ、その上に新しい道路が通り始めるようになると、空間は一新され、津波の以前のさまざまなことを、風景を通じて思い出すことは難しくなってきます。現在の町の風景は、追憶から手を切って、新しい段階に入りつつあるのです。私の写真に〈思い出〉が写ることは、めっきり少なくなってきました。いま写るのは、壮大な土木の〈プロジェクト〉が進行するさまなのです。この風景がいまなお〈パーソナル〉なものであるのか、私には自信がなくなってきています。

私は、1980年代から、日本中の石灰石鉱山を訪ね撮影をしていました(図7)。それは「LIME WORKS(ライム・ワークス)」というシリーズにまとめられたのですが、最近の陸前高田に行って驚くのは、その風景が、私のよく知っている、鉱山のそれに似てきている、ということなのです。しかしそれも当然です。山を削る方法は、露天掘り鉱山の採掘作業と、まったく同じ方法で行われているのですから。使っている重機類も、ダンプトラックのメーカーまで、鉱山にあるものと同じです。鉱山では石灰石の採掘に爆薬を使いますが、陸前高田でも山の内部に厚い石灰岩の岩盤があったため、毎日発破をかけてそれを砕いています。岩石を細かくすりつぶす装置も、ベルトコンベアの先端が、移動しながら土を落としていく様子も、私はよく鉱山で見ていました。現在の陸前高田の風景は、私にとっては、奇妙な〈déjà vu(デジャヴュ、既視感)〉の感覚を与えてくるものです。

7. 畠山直哉《Lime Hills #23718》1988年 © Naoya Hatakeyama

このような機械や装置類は、あと数年後に土地の造成が終了すれば、コンベア専用に作られた吊り橋も含めて、すべて解体撤去されると聞いています。数年後、町はうんと静かになり、もう荒々しい鉱山のようには見えなくなっていることでしょう。その時に、私の生まれ育った町は、いったいどのような姿をしているのか?それは津波後に、私たちが望んでいた姿のはずなのですが、本当にそれが、その時でも依然望ましい姿なのかどうか、確信を持って告げることのできる人は、どこにもいないと思います。

津波の巨大さに〈応答〉するように、現代の復興事業も巨大なものです。巨大であるがゆえに、いったん始まれば止めることは難しく、時間がかかり、後戻りもできません。津波の後、陸前高田にとどまることを諦め、他の土地に移った住民の数は、津波で亡くなった人の数に、匹敵するほどになっています。財力のある人々は、山間に、既に自分で土地を手に入れ、家を建てて新しい暮らしを始めています。これから数年後、巨大な土木工事がすべて終わった後、そこには予定されていたほどの件数の家が、本当に建っているのだろうか。夢だった街が、再び生まれているのだろうか。その見通しは、絶えず下方修正されているのです。

津波から4年が経ち、いまでは私にとっての陸前高田の風景は〈パーソナル〉と〈パーソナルではない〉ものの混交といった様相を呈しています。出来事の内側にあった私の身体が、時間によってその外側へと、じわじわと引きずり出されてゆくような感覚を、私はいま覚えています。これを〈忘却〉と、人は呼んできたのかも知れません。

引用時の表記法「アーティストトーク
パーソナル・ランドスケープ」『日本の写真にフォーカス』2022年 2月、
サンフランシスコ近代美術館、https://www.sfmoma.org/essay/アーティストトーク-パーソナル・ランドスケープ/
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畠山直哉

畠山直哉

日本の写真家。2012年、サンフランシスコ近代美術館にて畠山の写真展「Natural Stories(ナチュラル・ストーリーズ)」が開催され、同美術館のコレクションに深く関係する。
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エッセイ

研究資料

日本の写真—1950年代から1980年代までの批評論集

第二次世界大戦後の日本が消費者主導の経済へと変貌を遂げる中、国の主要な新聞社各社は大衆市場向けの写真誌の制作を始めた。当時、日本土着の特性を持ち、独創的で高い表現力を持つ新しいスタイルの写真が台頭し始めたが、まだ作品自体が芸術表現であることへの世間一般の認知度は低く、このような写真誌がその普及に重要な役割を果たした。数ある写真誌の中でも特に重要な存在だったのは、毎日新聞社の月刊誌『カメラ毎日』と朝日新聞社 (現在の朝日新聞出版) が刊行した『アサヒカメラ』であった。両誌は、その頃成熟期を迎えつつあった東松照明、森山大道、細江英公らに代表される世代の日本写真家の目新しく個性的な作品だけでなく、欧米の写真作品やそれらに対する批評文も紹介した。多くのページはアマチュア写真家の作品にも充てられ、家族写真を上手に撮る秘訣や、海外の大規模な写真展や展覧会図録に関する真摯な批評や論考なども合わせて掲載した。またこの頃、両誌より小規模で私的な写真誌も出回るようになる。石内都と楢橋朝子が手がけた『Main(マン)』は、彼女たちの作品を通して試行錯誤を重ねる女性写真家としての体験を綴っている。ここに厳選した1950年代後半から1980年代にかけて書かれた記事やエッセイはいずれも、日本の写真文化とその海外における写真界との繋がりを考察する現代の言説を例証するものである。