fbpx
エッセイ

「日本写真の100年」—歴史の清算と新しい潮流の誕生

東京の街角で日米安保条約の自動延長に反対するデモが行われていた1960年代後半、戦中・戦後の写真家たちは写真の戦争責任に決着をつけるべきではないかと公に問いかけていた。彼らは、仲間の写真家、渡辺義雄の「写真家はどうあるべきか?」という問いかけ[1]を引き合いに出し、集団で訴えたのだ。

その結果として1968年に東京、池袋西武百貨店で行われた「写真100年—日本人による写真表現の歴史展」は、20世紀で最も重要な写真展の一つとなった。[2] 日本人写真家による100年間の作品を分析したこの展覧会は、第二次世界大戦中における日本のファシズムに彼らがいかに貢献したのかを考察する最初の試みでもあった。この展覧会にともない刊行された図録は1980年に英語版が出版され、写真への日本の貢献を海外に紹介する最初の主要な書物となった。そして、展覧会そのものも新たな美意識を前面に押し出す要因となった。展覧会の編纂委員として何万枚もの写真を見た中平卓馬と多木浩二は、写真家集団「PROVOKE(プロヴォーク)」を結成し、そのアレ・ボケ・ブレ(粒子が粗い、不鮮明、焦点が合っていない)スタイルは世界中の写真家に現在に至るまで影響を与えるものとなった。[3]

日本写真の最初の集中的コレクション

「写真100年」展は、日本の北端から最南端の島々に至るまでの地方図書館、名家、そして収集家から写真とネガを集め、写真表現の変遷を体系づけた最初のアーカイブ・プロジェクトである。公共機関と個人コレクターの両方が所蔵する日本の歴史写真を分析するという前例のない試みのために、編纂委員たちが集めた日本の写真は、オリジナルプリントで10万枚以上、複製は約3万5000枚に及んだとされる。[4] 集められた写真が膨大な数であったことが、日本で初めての集中的な写真美術館、および写真資料の恒久的なアーカイブとしての東京都写真美術館設立への動きへと繋つながっていく。[5]

本展は、幅広い専門分野を持つ写真家たちによって企画、編纂、展示されたが、それによって彼らは、先人や同時代の作品のアーキビスト(記録保管人)となり、また理論家となった。 編纂委員のリーダーは東松照明が務め、中平と多木、さらには今井壽惠、内藤正敏、井上青龍などが参加し、その多くは日本写真家協会(JPS)のメンバーであった。[6] この展覧会では、若い世代がその教師の世代に対立するかたちで位置づけされ、土門拳、木村伊兵衛、そして濱谷浩を含めた日本の戦争世代の作品に対して、初めての公の批判が展開された。[7]

1. 「写真100年」展でセクションごとに写真がどう分類されたかを示す図(1968年)

展覧会への準備は二段階で進行していった。[8] 第一段階は1967年の秋で、編纂委員たちは日本各地の地方図書館や歴史団体などから写真とネガを集めた。これらの素材は、東京、銀座に設置された編纂委員の事務所に送られたが、そこには富士フィルムと岩波書店の写真図書館から参考文献として借りた何千冊もの書籍も保管されていた。第二段階では、編纂委員は東松指揮の下、この大量の写真群から1640点の写真を選び、それらのイメージを「写真表現」(写真のスタイル)ごとに分類していった(図1参照)。1968年4月、編纂委員たちは2日間に渡り築地の旅館に泊まり込んで、それぞれのセクションを編成していった。1860年代と1880年代の写真に焦点を当てた「第一の開化期」、1870年代から1920年代まで活発だった写真スタジオに焦点を当てた「営業写真館時代」、「芸術写真」、「アクシデント」、「広告服飾の変遷」、「国家宣伝」、植民地化された満州の写真を扱った「満州」、「戦争期」といった分類であった。これらのセクションは、それぞれに多木が「明治時代から第二次世界大戦までの〈写真家の〉社会的意識」[9]と呼ぶものを中心とした共通の視覚言語を確立することとなった。

2. 「ドキュメント」セクションでの写真の展示
3. 「国家宣伝」セクションでの写真の展示。第二次世界大戦中、写真誌『アサヒカメラ』の表紙に掲載された東条英機首相のポートレートが左端に展示されている。

戦時中の責任と現実の反映としての写真

最大のセクションである「ドキュメント」は雑誌と新聞のアーカイブから選んだ撮影者不詳の写真で構成されており、写真家と撮影された場面との繋つながりについての新しい考え方を提示するものであった(図2)。[10] 特定の歴史的出来事や場所を捉えた不詳の作家による写真で展示会場を埋めることによって、編纂委員たちは写真のイメージそのものの重要性を強調した。それとは対照的に、土門拳など著名な写真家によるプロパガンダ写真は、戦意発揚に向けてのフィクションを作り上げるためのメディアとして利用されていたことを実証した。したがって『アサヒグラフ』や『NIPPON』といった量産雑誌から取られた「国家宣伝」のセクションは、日本の写真家たちが本当の暮らしを描こうとすることを放棄して、理想化された演出写真を提供することで戦時中の日本帝国による事業を宣伝するようになった様子を描き出した(図3)。批評家、伊藤知巳の言葉によれば、これらは「歴史に無感覚な地点で捉えた写真」[11]だった。

後日、東松と他の多くの編纂委員たちは、これらの写真は歴史的出来事を批判的に分析する写真を制作することが出来なかった日本の写真家たちの集団としての欠点を示すものであったと結論づけた。第二次世界大戦が終結し、日本が降伏した直後、日本の写真家たちは日本の画家や作家とは異なり、国家と結託して戦争を支持してきたことに対して公に自己批判をしなかった。[12] 実際、土門や写真家兼編集者の名取洋之助などプロパガンダ的イメージを最も積極的に生み出した人々は、戦後も写真界の〈判定人〉としての役目を果たし続けた。[13] 東松、中平、や多木は、時代的に先行するこういった事情に抵抗したのだった。彼らにとってこれらの写真家たちは、記録写真という視覚技術を使って国民に対して国家の嘘を提示したに他ならず、「ドキュメント=記録」という前提自体に疑問を投げかけることになったのである。

こういった理由で、多木と中平は〈ドキュメント〉の意味を深く問いかけ、写真が現実を表すことができるという考え方そのものに対して異議を唱えることによって、自分たちの写真と戦中世代の写真を区別できるかもしれないと考えた。彼らは、田本研造の1870年代から1880年代にかけての北海道開拓期の映像と、従軍写真家だった山端庸介の長崎での原爆被害状況を撮影した写真だけが、この展覧会において本当の意味でのドキュメント写真にあたる作品とみなした。[14] 多木と中平は、このふたりの写真家は、それぞれの歴史的文脈の中で写真撮影に無心に取り組んだため、その対象と直接結びつくことができたのだろうと指摘した。[15] 展覧会が終わって数か月のうちに、中平と多木は、高梨豊、岡田隆彦、そしてのちに森山大道とともに、社会変革を促すようなまったく新しい、思想的な枠組みを持つ表現体系を見つけ出す試みを開始した。彼らによる共同体、プロヴォークは短命であったが、カメラによる偶然かつ機械的な性質に比重を置いた新しい技術や、写真家の存在を抹消したいという願いを提示した「アレ・ボケ・ブレ」の表現は、日本の写真界に確かな足跡を残したと言える。

「写真100年」展に付随した図録は薄いものであったが、それを基にして、東松、多木、内藤は日本写真家協会と共同で『日本写真史 1840〜1945』(訳註 平凡社刊)を刊行した。本書が出版された1971年の時点では、日本の写真史を最も包括的に紹介する書籍であった。展覧会のために集められた696点の写真に付随する論考の中で、その最初の展示であった「写真100年」展の批評的前提がより詳しく語られた。1980年にはランダム・ハウス社が同書の英語版を、歴史家ジョン・W・ダワーのテキストとともに出版した。ダワーは1999年に著した『敗北を抱きしめて—第二次大戦後の日本人』における戦後日本に関する研究でピュリッツァー賞を受賞している。ダワーは『日本写真史』の序文において、「この本で出会うのが単なる優れた<写真>であるという点だけでなく、これらの見事な写真の向こう側に、近代日本の信じられないほど多様で複雑な社会的、文化的力学を見渡すことのできる素晴らしい窓であるということを指摘したかった」[16]と述べている。

こうして日本の写真家たちの遺産を保存するための運動として始まった展覧会は、第二次世界大戦とそれ以後の写真家の役割を清算するものへと展開した。戦後世代の写真家たちは、日本の写真史を全国的な視点から考察し、時間と場所を横断して比較するというこれまでにない作業を行うことで、写真家の役割に対する批評論を打ち立てることができ、また写真表現そのものの境界に挑戦する思想的枠組みを持った方法論を築き上げたのである。こういったさまざまな問題を克服することで、日本の写真は新しい動きを生み出し、国外の鑑賞者に対して初めて日本の写真を紹介するための枠組みを作り上げたのであった。

朽木ゆり子 訳


  1. 渡辺義雄「『写真100年—日本人による写真表現の歴史展』について」『特集号・写真の日講演会』日本写真協会会報7・8、1968年、8頁
    1960年代の日本における抗議活動についてウィリアム・マロッティ著作「Japan 1968: The Performance of Violence and the Theater of Protest」(日本1968年—暴力のパフォーマンスと抗議の演劇)『The American Historical Review』(アメリカ歴史レビュー)114, no.1 、2009年2月、97-135頁を参照。
  2. 展覧会の正式名の英語訳は、「A Century of Photography: A Historical Exhibition of Photographic Expression by the Japanese」となるが、研究者はこれまで「A Century of Japanese Photography」という省略を使用してきたため、本エッセイもそれに倣う。
  3. 伊藤知巳、村上一郎、濱谷浩、東松照明、多木浩二、内藤正敏、木村恵一、熊切圭介、松本徳彦「『写真100年』展を終えて」日本写真家協会会報19、1968年、10頁。
  4. 集められた写真の枚数は資料によって異なる。当時、日本写真家協会の会長であった渡辺は10万枚だったと主張しているが、のちに東松照明は50万枚という数字を出している。渡辺「『写真100年—日本人による写真表現の歴史』展について」8頁。東松照明、内藤正敏、多木浩二、今井壽恵、平野久、「写真表現の歴史を語る—日本写真家協会写真100年展について」『アサヒカメラ』1968年6月号、222−28頁。伊藤、村上、濱谷他「『写真100年』展を終えて」24頁も参照のこと。
  5. 東京都写真美術館は1990年に開館した。英語名称は、Tokyo Metropolitan Museum of Photography から2016年にTokyo Photographic Art Museum(TOP Museum) に変更された。
  6. 日本写真家協会(JPS)は商業写真家とフォトジャーナリストの法的権利を守るために1950年に設立された。日本写真協会(PSJ)は、日本の写真の普及と、写真を通じての国際親善を推進するために1952年に設立された。戦後の日本の写真展のほとんどは、JPSやPSJなどのような写真団体、カメラクラブ、あるいはカメラ製造企業が主催し、画廊やデパートで開催された。一方、東京国立近代美術館は1953年から1974年の間に写真展を6回開催したが、1974年から1994年の間は一度も開催していない。詳しくはジュリア・アデニー・トーマス著作「Raw Photographs and Cooked History: Photography’s Ambiguous Place in the Museum of Modern Art, Tokyo」(生の写真と煮詰めた歴史—東京国立近代美術館において写真の曖昧な場所)『East Asian History: The Continuation of Papers on Far Eastern History』(東洋史—続極東史論文)no.12、1996年12月、125-26頁参照。
  7. 女性参加者は今井ひとりであった。展覧会は日本写真機工業会(JCIA)と写真感光材料工業会が協賛した。渡辺「『写真100年—日本人による写真表現の歴史』展について」8頁参照。
  8. 展覧会企画の詳細については、土屋誠一著作「The History of Japanese Photography in 1968—Reconsidering A Century of Photography」(写真史・68年—『写真100年』再考)『Photographers’ Gallery Press』(写真家のギャラリー・プレス) no.8 、2009年4月、242-52頁、ならびに金子隆一・田坂博子編『日本写真の1968 1966−1974沸騰する写真の群れ』(東京都立写真美術館刊、2013年)に収められている英訳された要約 Seiichi Tsuchiya、「The Whereabouts of the ‘Record’ Discovered: Reflections on A Century of Photography」(土屋誠一著作「見出された『記録』の住処―『写真100年』再考」)参照のこと。
  9. 伊藤、村上、濱谷他「『写真100年』展を終えて」24頁。
  10. 中平は「ドキュメント」セクションの展示方法を、1971年のパリ・ビエンナーレの「サーキュレーション-日付、場所、行為」の写真インスタレーションに利用した可能性がある。フランズ・プリチャード、「『来たるべき言葉のために』、『サーキュレーション』、と『氾濫』についてー中平卓馬と1970年代初期の過激なメディア批判の地平線」(On For a Language to Come, Circulation and Overflow: Takuma Nakahira and the Horizons of Radical Media Criticism in the Early 1970s」)『来たるべき新世界のためにー日本の美術と写真での実験』(For a New World to Come: Experiments in Japanese Art and Photography, 1968-1979)、中森康文、アリソン・パッパス(編)テキサス州ヒューストン美術館、2015年、84-89頁 参照。
  11. 伊藤、村上、濱谷他、「『写真100年』展を終えて」22頁
  12. 戦後の文壇における戦争責任を巡る議論については、J・ヴィクター・コシュマン著作「戦後日本の主体性についての議論—政治批判としてのモダニズムの基礎」(The Debate on Subjectivity in Postwar Japan: Foundations of Modernism as a Political Critique)『パシフィック・アフェアーズ』(Pacific Affairs)54、4号、1981〜1982年冬、609-31頁参照。戦後の写真については、ジャスティン・ジェスティー著作「リアリズム議論と戦後初期の日本でのモダン・アートの政治(The Realism Debate and the Politics of Modern Art in Early Postwar Japan)『ジャパン・フォーラム』(Japan Forum)26、4号、2014年9月、508-29頁参照。
  13. 土門拳は1950年代に、『NIPPON』 や『写真週報』など、日本の帝国主義を美化した国策雑誌にプロパガンダ写真を撮っていたにもかかわらず、日本のリアリズムの父としての名声を確立した。土門の自身の写真理論に関する戦後の発言については、ジュリア・アデニー・トーマス「目に見える権力―写真と戦後日本のつかみどころのない現実」(Power Made Visible: Photography and Postwar Japan’s Elusive Reality) 『アジア研究ジャーナル』(The Journal of Asian Studies)67、2号、2008年5月、365-94頁参照。
  14. 中平と多木の田本研造への脱文脈的礼讃についての洞察に満ちた批評としては、キム・ゲウォン著作、「《北海道の写真》を見直すー1960年代日本のスタイル、政治とドキュメンタリー写真」(Reframing ‘Hokkaido Photography’: Style Politics, and Documentary Photography in 1960s Japan)『写真史』(History of Photography)39、4号、2015年12月、39、348-65頁参照。
  15. フィリップ・シャリエ、「日本の画像理論での多木浩二、プロヴォーク、構造主義者の転換、1967〜70年」(Taki Koji, Provoke, and the Structuralist Turn in Japanese Image Theory, 1967-70)『写真史』41、1号、2017年4月、25-43頁参照。
  16. 著者とのインタビュー、2018年11月18日。
引用時の表記法「「日本写真の100年」—歴史の清算と新しい潮流の誕生」『日本の写真にフォーカス』2022年 2月、サンフランシスコ近代美術館、https://www.sfmoma.org/essay/「日本写真の100年」-歴史の清算と新しい潮流の/
もっと見る閉じる

For an enhanced viewing experience, it is recommended you use a desktop.


ケリー・緑・マコーミック

ケリー・緑・マコーミック

ブリティッシュコロンビア大学・日本史助教授

エッセイ

研究資料

日本の写真—1950年代から1980年代までの批評論集

第二次世界大戦後の日本が消費者主導の経済へと変貌を遂げる中、国の主要な新聞社各社は大衆市場向けの写真誌の制作を始めた。当時、日本土着の特性を持ち、独創的で高い表現力を持つ新しいスタイルの写真が台頭し始めたが、まだ作品自体が芸術表現であることへの世間一般の認知度は低く、このような写真誌がその普及に重要な役割を果たした。数ある写真誌の中でも特に重要な存在だったのは、毎日新聞社の月刊誌『カメラ毎日』と朝日新聞社 (現在の朝日新聞出版) が刊行した『アサヒカメラ』であった。両誌は、その頃成熟期を迎えつつあった東松照明、森山大道、細江英公らに代表される世代の日本写真家の目新しく個性的な作品だけでなく、欧米の写真作品やそれらに対する批評文も紹介した。多くのページはアマチュア写真家の作品にも充てられ、家族写真を上手に撮る秘訣や、海外の大規模な写真展や展覧会図録に関する真摯な批評や論考なども合わせて掲載した。またこの頃、両誌より小規模で私的な写真誌も出回るようになる。石内都と楢橋朝子が手がけた『Main(マン)』は、彼女たちの作品を通して試行錯誤を重ねる女性写真家としての体験を綴っている。ここに厳選した1950年代後半から1980年代にかけて書かれた記事やエッセイはいずれも、日本の写真文化とその海外における写真界との繋がりを考察する現代の言説を例証するものである。