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エッセイ

イントロダクション

サンフランシスコ近代美術館(以下、SFMOMAと称する)は、開館当初から日本の近代芸術作品を収集・展示してきました。その中でも1960年代から現在に至る日本写真作品には特に注目し、当館が企画するプログラムの重要な核を担っています。1 1975年に当館はニューヨーク近代美術館が前年に企画した「New Japanese Photography ニュー・ジャパニーズ・フォトグラフィー」展を開催し、この展示は日本の写真家による独創的で意義深い作品が初めて国際的な評価を得る場となりました。1979年から1987年までSFMOMAの写真部門責任者を務めたヴァン・デレン・コークはこの写真展に触発され、東京発信の写真誌『カメラ毎日』の編集者で当展覧会の共同キュレーターでもあった山岸章二との交流を始めます。山岸は雑誌に掲載された森山大道の《三沢の犬》(1971年)などの複数のオリジナル写真作品をコークに贈ります。コークは1980年にこれらの作品をSFMOMAに寄贈し、当館の有する日本写真コレクションの基礎が築かれました。 2

1999年、SFMOMAは森山大道の海外初となる大規模な展覧会「Stray Dog」(野良犬)展を開催しました。続いて2004年に東松照明の回顧展を開催、2009年には、当館所蔵の日本写真作品の数は増え、「The Provoke Era: Postwar Japanese Photography」(プロヴォーク時代―戦後日本写真)と「Photography Now: China, Japan, Korea」(フォタグラフィー・ナウ―中国、日本と韓国の写真)の二つの展覧会を開催することができました。2012年には畠山直哉の「Natural Stories ナチュラル・ストーリーズ」展を開催、またこの年、当館は東京の空蓮房コレクションより数々の写真作品を寄贈されます。のちに寄贈作品数は400点を超え、これらの作品は当館所蔵の日本写真作品の質を計り知れないほど深めることとなります。その作品群の中には戦後世代の写真家による優れた写真も含み、若き写真家たちの表現に新たなる活力を吹き込みました。2016年、大規模な増築を経たSFMOMAはその再オープンを記念して、「Japanese Photography from Postwar to Now」(戦後から現在の日本の写真)展を開催し、空蓮房からの寄贈作品やその他寄付された一流作品の価値を世に示す展覧会となりました。この展示は当館の日本写真作品への揺るぎない献身を表するものであり、すでに名声を確立していた東松や森山、彼らと時代を同じくして活躍した写真家たちの作品を掘り下げて紹介するとともに、最近の写真表現の持つ多様性や生命力といったものにも目を向けました。

ヨーロッパにおいて写真が発明されて間もなく日本でも写真技術が普及し、1848年にダゲレオタイプ・カメラが初めて輸入されてからは、程なくしてカメラの商業的側面が発展していきます。20世紀初頭にはアマチュア写真文化が活気付き、日本のピクトリアリズムは国際的評価を受けるようになりました。しかし、ここで特筆すべきは、第二次世界大戦後の時代に全く新しい発想の写真文化が日本で生まれ、それが今日に至るまで根強く生き続けている点です。連合軍の占領下で起草・採択された戦後の日本国憲法は日本の軍事的存在を禁じ、これに伴い非軍事的な光学、化学、技術などが積極的に取り入れられるようになりました。写真はこの恩恵を受け、産業界の指導者たちはアマチュア写真家の市場に目を向け始めます。これに応じて朝日新聞や毎日新聞を始めとする日本の全国紙が様々な写真誌を付録という形で月一度のペースで発行するようになります。こうした写真誌が、東松森山、細江英公など、ジャーナリストではないながらも写真の持つ特有の表現力を引き出した多くの優れた写真家を支えたのです。そのころ、写真は芸術表現としてはまだ広く認識されていなかったため、この新興の写真文化は、美しさや芸術性を求めるものとしてではなく、出版物に連載される視覚的表現として芽吹きました。この時代の独創的な写真家たちが次に注力したのが、一度写真誌に掲載された作品を再編集した写真集の制作です。こうして世に出るようになった写真作品は、日本の写真家ならではの美学的特質を示すものとして認識されるようになります。

1960年代には、アメリカはアジア圏内での軍事力を強めていき、日本の米軍基地はベトナムへの派兵の拠点として利用されていきました。東松にとって、アメリカ人は日本固有の文化を汚す外国勢力に他なりませんでした。一方、森山はアメリカをより曖昧に捉えますーアメリカ人は脅威であると同時に、それまで日本になかった自由とエネルギーをもたらす存在だと考えたのです。細江を始めとする他の写真家たちは、写真の中にアメリカの存在を組み入れることを拒みました。地方に残る伝承や神話を探っていく中で、細江は〈本質的な〉日本らしさと日本固有のモダニズムを見出します。細江はまた、友人であった急進的で保守派の小説家・三島由紀夫の撮影も行い、大がかりな演出を施した三島の写真シリーズを撮影しました。次世代の写真家を代表する石内都の作品では、アメリカは強烈な存在として描かれています。米軍基地のある横須賀で育った石内は、若い女性として常に身の危険と隣り合わせな日々を過ごしました。のちに石内は過去の不安と向き合うために再び横須賀に戻り米軍の存在を写真に収めました。石内は現在に至っても、原爆投下後の広島で発見された衣服を哀愁溢れる写真に収めるという活動を通して、アメリカの自国への介入の歴史に取り組み続けています。

天然資源の不足にもかかわらず、日本は戦後、高品質な製品を効率良く生産し、西洋からの高い需要を受け目覚ましい発展を遂げます。しかし、奇跡的な発展を見せた日本経済は1980年代半ばを迎える頃に突如崩壊し、1990年代前半には、かつて上昇の一途をたどった株価や不動産価格は急落し、〈失われた20年〉と銘打たれた時代に突入します。自国のこうした急激な成長と景気後退の両面は日本の写真家の作品に反映されています。1990年代、金村修は危うさを感じさせる都市部の闇を、楢橋朝子は海から見た不安定に広がる陸地を、それぞれ写し取りました。畠山直哉は日本の写真界において同世代の中で最も広く評価される哲学者兼アーティストです。彼の作品は日本や様々な地域で展開する人間と自然の営みとその関係性を説く作品で知られています。近年の作品は、畠山の故郷である東北地方に壊滅的な打撃を与えた2011年東日本大震災が残した傷痕を主題としています。1990年代後期から2000年代初期にかけて、日本に多くの優れた女性写真家が登場します。中でも特筆すべきは川内倫子と、彼女より若い世代の志賀理江子です。またこの頃、写真家たちは人口の密集する東京などの大都市における人々の営みに一層の関心を向けるようになります。混沌として不自然な都市空間やその景観、そして都市独特の文化を切り取った写真作品は後を絶ちません。またそれに呼応するかのように、急速な過疎化と高齢化に直面する地方にも関心が向けられ、そこから日本の文化やアイデンティティーを見出そうとする流れも起きています。

近年、日本の写真作品は世界写真分野において必要不可欠な存在になり、戦後に活躍した写真家と若い世代の写真家、この両者に一層の注目が集まりました。このデジタル出版物は、日本における写真制作の発展に重要な役割を果たし、SFMOMA所蔵のコレクションに深く関わっている写真家を中心に紹介しています。新たに書かれたエッセイ、ビデオインタビュー、さらにはそれぞれの写真コレクションを紹介する図版入りのページが、ここに結集します。本企画の黎明期からご支援していただいたグレン・S・フクシマと橘・フクシマ・咲江ご夫妻に感謝の意を表するとともに、本企画は、世界各地におられる日本写真作品の研究者や愛好家の皆様にとって役立つことを願っております。

十文字素子 訳


  1. SFMOMAでは、日本のモダンデザインや近代美術作品の一環としても、早い時期から写真作品を紹介してきました。1955年に開催した「Japanese Architecture and the Japanese Tradition」(日本の建築と伝統)展では石元泰博の写真作品を展示しています。当館は、1930年代から1970年代までの日本の近代絵画、彫刻ならびにグラフィックアート作品の蒐集に尽力したのです。
  2. SFMOMAは、アメリカを拠点とし海外の写真家コミュニティーとも関わりを持っていた日本人作家の作品蒐集にも力を注ぎました。杉本博司、井津建郎、国吉康雄を始めとする多くの作家の写真作品はどれも、1979年から1984年までの間に当館のコレクションに加えられました。
引用時の表記法「イントロダクション」『日本の写真にフォーカス』2022年 2月、サンフランシスコ近代美術館、https://www.sfmoma.org/publication/focus-japanese-photography/イントロダクション
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サンドラ・S・フィリップス

サンドラ・S・フィリップス

サンフランシスコ近代美術館写真部門名誉キュレーター
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エッセイ

研究資料

日本の写真—1950年代から1980年代までの批評論集

第二次世界大戦後の日本が消費者主導の経済へと変貌を遂げる中、国の主要な新聞社各社は大衆市場向けの写真誌の制作を始めた。当時、日本土着の特性を持ち、独創的で高い表現力を持つ新しいスタイルの写真が台頭し始めたが、まだ作品自体が芸術表現であることへの世間一般の認知度は低く、このような写真誌がその普及に重要な役割を果たした。数ある写真誌の中でも特に重要な存在だったのは、毎日新聞社の月刊誌『カメラ毎日』と朝日新聞社 (現在の朝日新聞出版) が刊行した『アサヒカメラ』であった。両誌は、その頃成熟期を迎えつつあった東松照明、森山大道、細江英公らに代表される世代の日本写真家の目新しく個性的な作品だけでなく、欧米の写真作品やそれらに対する批評文も紹介した。多くのページはアマチュア写真家の作品にも充てられ、家族写真を上手に撮る秘訣や、海外の大規模な写真展や展覧会図録に関する真摯な批評や論考なども合わせて掲載した。またこの頃、両誌より小規模で私的な写真誌も出回るようになる。石内都と楢橋朝子が手がけた『Main(マン)』は、彼女たちの作品を通して試行錯誤を重ねる女性写真家としての体験を綴っている。ここに厳選した1950年代後半から1980年代にかけて書かれた記事やエッセイはいずれも、日本の写真文化とその海外における写真界との繋がりを考察する現代の言説を例証するものである。