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エッセイ

アーティストトーク
僕の作品について

2006年9月15日、サンフランシスコで開催されたPhotoAlliance Talkより

写真は、外在する事実の〈確かさ〉を教えてくれるものであると同時に、事実が僕たちの思考の内部に取り込まれる時の〈不確かさ〉を教えてくれるものでもあります。単なる情報として写真を見るなら、そこには何の変化もありません。でも、僕たちの精神は、日々変化し続けています。写真を見る人間の精神の変化に応じて、一枚の写真の意味合いも変化して当然です。僕の話のあとでも、多分それが起こるでしょう。願わくは、それが〈つまらない変化〉ではなく〈よい変化〉でありますように。

さて、ここに来る前に、PhotoAllianceのウェブサイトを拝見しました。そこには僕のトークに関しての告知があり、その文章の中では「我々が暮す自然風景と人工風景の中で起こる様々な変化との関係」という言葉が印象的でした。ここにも〈変化〉という言葉があります。それから〈風景(ランドスケープ)〉という言葉があります。それから〈自然〉という言葉と〈人工〉という言葉があります。それから〈暮す〉という言葉。これらの5つの言葉は、実によく僕の関心を表してくれていると思いました。

今日は僕の写真を見ながら、これらの言葉について考えることになると思います。それにもう一つ忘れずに、大事な言葉を付け加えるとしたら、もちろん〈写真〉という言葉でしょうか。〈変化〉〈自然〉〈人工〉〈風景〉〈暮す〉。いったいこれらの言葉と、僕たちの関心事である〈写真〉という言葉はどう交差するのか。

この一枚の下手くそな油絵は、僕が17歳の頃に描いたものです(図1)。美術に対しての関心が、なぜかは分かりませんが、高校生の頃、僕の内部で急に高まったのです。僕は日本の4つの大きな島のうち、本州と呼ばれる一番大きな島の北に位置する岩手県というところで生まれました。「岩手」は英語だと「rock(石)」と「hand(手)」という、変わった意味の地名で、鬼が神様の前で「もう悪いことはしないから」と岩に自分の手形を押して約束した、という言い伝えが、地名のもとになっているという話があります。その地名のせいかどうかは分かりませんが、僕は子供の頃から柔らかいものよりは硬いものの方が好きで、岩石や金属の方を、動物や植物よりも好むところがありました。高校に通う道で、毎日眺めていたセメント工場を、僕は生まれて初めてキャンバスに油絵の具で絵を描く時の題材として選んだのです。

1. 畠山直哉「学生時代の絵画」1975年 © Naoya Hatakeyama

僕はその後、1979年に筑波大学という東京から60キロ北にある大学の芸術学部に入り、そこで大辻清司という素晴らしい先生に会って、写真に興味を持つようになったのですが、その頃の話や大辻先生個人について話を始めると時間が足りなくなりそうなので、学生生活を終わって東京で暮らし始めてからの話に移ろうと思います。

ただその前に、一つだけ言っておきたいことは、僕が学校で写真を学んだ時期に、日本におけるアメリカの写真の影響力は巨大であった、ということです。写真の最初の授業で、大辻先生が学生に紹介してくれたのは、リー・フリードランダーの仕事だったことを、今でもよく覚えています。当時の日本では、70年代からアメリカで積極的に展開されていた新しいドキュメンタリー写真、新しい風景写真、新しいカラー写真、新しい評論など、多くの新鮮な写真表現が伝えられており、写真を学ぶ多くの若者に、様々な刺激を与えていました。

中でも、特に日本の若い世代に影響を与えたのは、それほど特別な出来事が起きている訳でもない、自分の日常生活や日常風景に向かって、堂々とシャッターを切る、という何人かのアメリカの写真家の態度だったでしょう。写真を撮るために特別な場所に出か けたり、特別な人間に会ったりする必要はない。今ここ、自分の目の前にあるものに向かってシャッターを切ればよい。それらの写真はそういっているように見えました。それらの写真は、現実世界ではなんでもない光景が、写真に撮られることで特別なものになる、という不思議さを僕たちに教えてくれていたのです。若い世代を中心に、その後〈なんでもない写真〉が膨大に撮られる、という事態が生まれ、それを上の世代は「コンテンポラリー(現代)」という言葉を省略し、「コンポラ写真」と呼んで、訝しんだものです。

僕の仕事は、70年代にアメリカに咲いた大きな美しい花の花粉が、風に運ばれて太平洋を越え、遙か遠くの西の島で、別の花との間に実を結び、その種が育って咲いた花のようなものかも知れません。問題は、その花が魅力的かどうかなのですが、それはこれからじっくり観察していただきたいと思います。

さて、東京は、皆さんご存じのように、世界でも稀に見る高密度の都市です。大学教育を終えてそこで暮らし始めると、困ったことが起きました。それまで僕が育った場所、通った大学も、広いところにあったのです。学生時代に撮っていた写真も、広い平らな場所に、ある程度の距離を置いて、単純な形のものや建物がポンとある、といったものでした。水平に撮られたその写真には、ものの背景に大きな空がありました。そんな単純な写真の見え方が僕は好きだったのです。ところが、東京の街を歩いても、中々広い場所や、はっきりした形の事物には出会えません。東京の空間はごみごみしていて狭く、歩くと、自分の視界はいつも無数の線や面で、すぐ覆われてしまいます。それまでと同じように写真を撮ることは、東京では不可能のように思われ、僕は少し困惑していました。

東京で思うように写真が撮れないことから、広い場所に対する憧れが強くなり、時間を見つけては郷里の岩手に帰るようになりました。帰ると足が向くのは、やはり高校時代に愛着のあった、あのセメント工場だったのです。ある日、セメント工場を外から眺めているだけでは気が済まなくなり、思い切って事務所のドアを叩き、中を見せてくれるようにお願いしました。

セメント工場は多くの場合、原料である石灰石の鉱山に近い場所に建っています。工場を案内してくれた優しい係員は、「山(鉱山)も見ますか?」と誘ってくれたのです。それが、今日まで20年も続く、一連の石灰石産業に関する仕事の第一歩でした(図2)。

2. 畠山直哉《Lime Hills #23514》1988年(2002年プリント)、SFMOMAコレクション(空蓮房コレクション寄贈)© Naoya Hatakeyama

石灰石鉱山の姿に魅了された僕は、やがて、東京にある「石灰石鉱業協会」とも連絡を取るようになり、その協会の協力もあって、約8年間をかけて、北海道から沖縄まで、日本中の多くの鉱山を訪れました。それと前後して、大型カメラで建築写真を撮ることを覚え、多くのセメント工場も訪れました。

そして要約1996年にその仕事は一冊の本にまとまったのですが、その8年間の作業を通じて、東京に暮らす僕の内部で、都市の見え方が、少しずつ変化してきたのです。

飛行機で鉱山の撮影から東京に戻る時、東京の上空を飛行機が旋回することがあるのですが、空から見る東京は、細かい岩石が敷き詰められている平面のように見えます。それは、僕が鉱山で目にしていた岩石をすぐに連想させます。実際、都市の建築や道路を造るために、石灰石は採掘され、コンクリートになる訳ですから、巨視的に見て、都市のテクスチュアが岩石のそれと似てくるのは自然なことと言えます。

石灰石鉱山で撮影している間、作業員たちからは、よく写真家に対する不信感の表明を聞きました。一部の写真家は、鉱山の写真を撮り、それを自然破壊の現状としてメディアに発表する。その度に彼らはやりきれない思いにとらわれる、というのです。確かに緑の山が崩され、大きな穴が開いているのを眺める時、誰の心にも無念さは湧いてくるでしょう。しかし、その大きな穴を埋めていた岩石が、今はどこにあるのか、ということにまで思いを馳せながら、崩された山を見る、ということを、僕たちは普段おこなっているでしょうか。

社会と自然の関係は、一言で言って〈複雑〉です。例えば、CO2による地球温暖化の責任を、誰か特定の人間や企業に負わせることができるのか、少し考えてみるだけで「答えはなかなか簡単には出ない」ということは誰にでも分かります。また、生存のための環境としての自然と、美意識と共に眺められる自然とは、決して同じものではありませんが、僕たちはそれをよく、混同してしまいます。つまり、僕たちは一般に、自然を美しいものとして考えていますが、〈美〉に対する意識そのものが、文学や芸術の歴史の中で育まれた、極めて人工的な側面を持つものである、ということを忘れている場合が多いのです。いったい、日本国内で、森を削って作られたゴルフ場の総面積が、石灰石鉱山の総面積の何十倍になるかは分かりませんが、都会の人々は「自然を楽しむ」ために、休日になると、車を飛ばしてゴルフ場に出かけているのです。

確かに問題は複雑です。しかし、複雑で手に負えないからと議論や政治を諦めていては、自然環境はどんどん悪くなる一方だということも確かです。僕たちは全てこのようなジレンマの中に暮らしていると言っても間違いではないでしょう。

とにかく、僕は最初から「自然破壊の現状」といった単純すぎるメッセージのために鉱山や工場の写真を撮ろうとは思っていませんでした。僕たちの暮らす都市や建築や道路を作るために、石灰石は使われる。鉱山の大きな穴は、僕たち自身があけている。8年間の作業中、僕はそのように考えながら写真を撮っていました。

普段東京という都市の中に暮らし、街を眺めている時にでも、僕は、遠く離れた石灰石鉱山のことを、常に考えるようになりました。そのうち、都市と鉱山の間に一つの繋がりが感じられるようになったのです。〈つながる〉という感覚は素晴らしいものだと思います。場所と繋がるにしろ、人と繋がるにしろ、それでこそ生きている〈実感〉、〈リアリティ〉というものが湧いてくると思うのです。

1980年代に鉱山の仕事を始めた僕ですが、興味の中心は当初、その風景だけにありました。風景写真を撮るために僕は鉱山に通った訳です。撮影の途中で、係の人に「発破が始まるから避難しなければならない」と、よく言われました。遠く離れた丘の上から、鉱山の切り羽が急に膨れ、少し遅れて〈ドン〉と音が聞こえて、煙と共にバラバラに砕けた石が散らばってゆきます。それをぼんやりと遠くから眺めている、といった時間を何度も過ごしました。

やがて、僕の中で、あの砕け散る岩石の様子を、もっと詳しく観察することはできないのだろうか、という欲求がふくらんで、やっとそれを実行することになったのは、1995年のことでした。遠くから望遠レンズで撮ることには、最初からあまり興味がありませんでした。写真にはカメラから被写体までの〈距離〉が確実に写ってしまいますから、出来上がった写真がどこか安全な印象になってしまうだろうことは、目に見えていたからです。

「そばに寄ってみたい」と思うのですが、現場の係員たちが許してくれる訳がありません。第一、生命の危険が大きすぎます。小さな石でも、体に当たれば即死の危険があるのですから。そこで考えたのは、人間は遠くにいて、カメラだけをそばに寄せる、とい
う方法でした。当初、大型カメラを使って試しましたが、速いシャッターが切れないことや、チャンスに対して1枚しか写真が撮れないことなどが問題となり、結局モータードライブ付きの小型のカメラを使うことにしました。操作は最初、赤外線の受信機とフラッシュを使って試していたのですが、ニコンというメーカーからFM電波を使ったコントローラーが出ていることを知り、試してみたところ、かなり遠くからでも上手く作動することが分かったので、以後、それを使っています。

問題は、鉱山関係者の説得でしたが、撮影した連続写真をアルバムにして毎回プレゼントする、という提案をしたところ、いくつかの親しくしている鉱山から撮影の許可が下りたのです。彼らにとっても、岩石が砕けていく様子を間近から見ることなどないことですから、技術的な関心を持ってくれたのだと思います。

ほぼ毎日、日本各地の鉱山で一日2回から3回行われている発破(Blast)の作業ですが、僕のカメラが置かれているような場所に立った人間など、今までただの一人もいなかったはずです。例えるなら、そこは歴史上誰も近寄ったことのない〈秘境〉とか、無人探査船が着陸した惑星のような場所なのです。

カメラの設置場所に関しては、毎回、鉱山の発破技師の助言を仰ぐことになります。できるだけ近く、しかもカメラが壊れないだろう場所を、彼らは崖の上から僕に教えてくれます。2000トンもの岩石が崩れる様子を、あらかじめ脳裏に描き、僕に的確な助言を与えてくる彼らの能力は、感動的ですらあります。長年岩石に接することによって、僕などには決して描くことのできないヴィジョンを、彼らは獲得しているのです。彼らはある意味で、岩石という自然と、対話をおこなっているのだと言えます。

3. 畠山直哉《Blast #12115》2005年、SFMOMAコレクション(空蓮房コレクション寄贈)© Naoya Hatakeyama

自然を美意識と共に眺める芸術的な人間たちがいる一方で、自然に触りながら理解力と知恵をたくわえてゆく技術的な人間たちがいます。どちらが平和的な人間か、という話は置いておくとして、さて、写真家はどちらなのでしょうか?

僕は、写真の歴史の一番初めに、〈自然〉という言葉の重要性に気が付いていたひとりの人物のことを思い出します。それは英国のウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットです。ご存じのように、彼は写真術を「自然の鉛筆(Pencil of Nature)」と呼んだのでした。写真とは、自然が鉛筆を手にし、絵を描くことである、と。この言葉には、芸術(アルス)と技術(テクネー)が一体となっていたと言われる、遥かな昔を思わせ
るような、なんとも甘美な響きがあります。

〈自然〉と〈写真〉を対置する時、現代の僕たちは、得てして、写真の外側にある被写体としての自然だけに目を奪われ、写真の内側にも自然が存在していることを忘れがちです。写真というメディウム自体にも自然が宿っている。そのことに気が付いていた先人のことを、少なくとも僕は忘れないでいたいと思います。

写真が〈自然〉なら、そこには独自の〈生態学〉が成り立つ可能性もあるかも知れません。実際、20世紀にアメリカを中心にした近代写真の活動が推し進めてきたものは、〈写真〉という環境と〈人間〉の相互関係を研究することではなかったでしょうか。

現代の甚だしい電子技術革命によって、写真はいわば〈生態学的な危機〉を迎えている、と言ったら大げさに聞こえるかも知れません。でも、これからの写真環境が、従来の〈鉛筆を手にした自然〉と異なってくるだろうことは、誰の目にも明らかです。印画紙やフィルムが次々に消えてゆき、携帯電話で撮られた無数の画像が世界中を瞬時に往き来している現代、写真における〈自然〉の意味合いは、確実に変容し始めています。

僕は今年の夏、一羽の鳥の写真を撮りました。撮ったというより、写った、といった方がいいかも知れません。空の左の方に小さく見えるのがそうです。この鳥は、撮影中に偶然フレームに入って来て、爆発に驚き、そして逃げ去ります。〈自然〉が逃げてゆく、と僕には感じられます。何から?人間的なものからでしょうか。

強大な人間の力が、一瞬〈自然〉を覆い隠すのですが、その力の行使が落ち着くと、〈自然〉は何事もなかったかのようにして再び現れ、どこか別の場所へと去ってゆきます。フレームはそのまま動かず、人間的な世界は固定されたまま、〈自然〉だけが、面倒なことから逃げるようにして、そのフレームの外にでてゆく。少し大げさかも知れませんが、僕にはそう感じられます。

近代の写真家は常に、写真の内なる自然と、レンズの向こうにある自然との間の弁証法的な関係を、調停したり鼓舞したりすることに、労力と情熱を注いできました。そのことは、ここに集まっている人々こそが、もともとよく知っていることで、今さら繰り返すことでもありません。

そして21世紀。写真の内なる自然は、デジタル・テクノロジーの発展によって、次の位相に移りつつあるでしょう。それは今のところ、あまり〈自然〉なもののようには見えないので、僕のような人間にとっては、居心地のいいものではありません。しかし、いくらデジタル技術と言っても、それが〈技術〉である以上、そこには〈自然〉との接点が必ずあるはずですから、新しい形での外界との弁証法が、いずれまた生まれてくるのではないかと思います。

これで僕の今日の話は終わります。〈変化〉〈自然〉〈人工〉〈風景〉〈暮す〉という5つの言葉に関して考えるために、僕の写真はどれだけの材料を皆さんに提供することができたでしょうか。そして、サンフランシスコの皆さんは、僕の仕事の中に20世紀後半のアメリカ写真の影響をどの程度お感じになったでしょうか。

ここにお集まりの皆さんが、明日からまた写真を実践してゆく上で、今日の僕の話が、いくらかの参考になってくれたなら、これに勝る幸福はありません。10年後に、再びこの地で、僕の仕事のその後について報告できるかどうかは分かりませんが、その日を夢見ながら、僕も仕事に励もうと思っています。

引用時の表記法「アーティストトーク
僕の作品について」『日本の写真にフォーカス』2022年 2月、
サンフランシスコ近代美術館、https://www.sfmoma.org/essay/アーティストトーク-僕の作品について/
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畠山直哉

畠山直哉

日本の写真家。2012年、サンフランシスコ近代美術館にて畠山の写真展「Natural Stories(ナチュラル・ストーリーズ)」が開催され、同美術館のコレクションに深く関係する。
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エッセイ

研究資料

日本の写真—1950年代から1980年代までの批評論集

第二次世界大戦後の日本が消費者主導の経済へと変貌を遂げる中、国の主要な新聞社各社は大衆市場向けの写真誌の制作を始めた。当時、日本土着の特性を持ち、独創的で高い表現力を持つ新しいスタイルの写真が台頭し始めたが、まだ作品自体が芸術表現であることへの世間一般の認知度は低く、このような写真誌がその普及に重要な役割を果たした。数ある写真誌の中でも特に重要な存在だったのは、毎日新聞社の月刊誌『カメラ毎日』と朝日新聞社 (現在の朝日新聞出版) が刊行した『アサヒカメラ』であった。両誌は、その頃成熟期を迎えつつあった東松照明、森山大道、細江英公らに代表される世代の日本写真家の目新しく個性的な作品だけでなく、欧米の写真作品やそれらに対する批評文も紹介した。多くのページはアマチュア写真家の作品にも充てられ、家族写真を上手に撮る秘訣や、海外の大規模な写真展や展覧会図録に関する真摯な批評や論考なども合わせて掲載した。またこの頃、両誌より小規模で私的な写真誌も出回るようになる。石内都と楢橋朝子が手がけた『Main(マン)』は、彼女たちの作品を通して試行錯誤を重ねる女性写真家としての体験を綴っている。ここに厳選した1950年代後半から1980年代にかけて書かれた記事やエッセイはいずれも、日本の写真文化とその海外における写真界との繋がりを考察する現代の言説を例証するものである。